スクラップ・アンド・ビルドが日本を救う
日本は仏教伝来の際、明治維新と二度に亘り聖俗分離の機会を逸してしまいました。その上、第二次世界大戦敗戦により、数奇な経験を強いられる事にもなりましたが、これは次のステップへの貴重な体験かも知れません。
本来人間等皆似たり寄ったりで東と西、或いは北と南とで大差がある筈も無く、知ってやっているか、知らないでやっているかの違いなのです。 然し乍らこの違いが時に大きな違いにもなると言う事であり、つまり無意識を無くし、潜在化している意識を顕在化する努力も必要だと言う事です。人それぞれ見解の相違こそ五万とあるだろうが、違いを見付けてばかりいたのではそれこそ纏まるものも纏まらなくなり、最初から、「人生こんなもんさ」、「社会なんてこんなもんさ」、「人間なんて一言で括って皆馬鹿だよね」と無常論を唱えていたのでは、思考の努力さえ必要が無い。思考が必要ないと言う事は思考が短絡する心配も無い訳です。
私自身もこの十余年、ああでもない、こうでもないと、不確かな部分には自分なりの仮説を立てて考えを巡らせ、最近になってやっとかなり精度の高い解析が出来上がりつつあるので、そろそろ一度仮の結論を出し、このロジックが果して通用するものなのか一度システムをランさせてみる時期が来ているとも思えるので、今回は未発表の図式を公表し、最終的な対策に迄言及する事にしました。
これは以前に発表した[内省の勧め]と併せ読んで頂くとより理解し易いと思います。
次の図式は柳田國男の基本的な考え方を自分なりに纏めたものです。
昨日 | 今日 | 明日 |
---|---|---|
史心 | 内省 | 実験 |
過去 | 現在 | 未来 |
真・善・美について
元々柳田國男は日本の礎となる「信仰」と「世間」の二つを基本に研究を進め、結果的に日本の社会が個人主義、自由主義と矛盾する事を図らずも括りだしてしまい、残念乍らその矛盾を如何にして直したら良いか迄は提案する事無くこの世を去りました。
「信仰」と「世間は」、現代的に表現すれば即ち「国是」と「社会」そのものとも言え、彼の言う「国の礎」そのものでもあります。
彼は、真はインターナショナルであり、善及び美はナショナルである事を主張しました。
然し乍ら、彼は同時にそこで自己矛盾を引き起してしまったとも言えます。
つまり、彼の常に批判した、輸入物の学問はインターナショナルではあっても、ユニバーサルでは無いのであり、真はユニバーサルでなくてはならないからです。
私が日本は真善美(学問)が衣食住(生活)に反映されていないと言い続ける根拠はここにあるのです、日本は明治維新後外国から学問を輸入し、真善美を三角形でなく一直線上に位置付けてしまいました。本来真は善と美を統括する規範であるべきなのです。
その上最悪な事に美意識先行型の日本人は最初に来るべき真を最後に持って行き、美善真と並べ替えてしまったようです。
日本では真実が最後に来るのだと考えると妙に納得が行くでしょう。
仮説
次の図式は私が「世界は個から全、全から個への循環の内に在る」と位置付けるものです。
これが私が地球の西と東、北と南で人間の営みに大きな違いは無く、たまたま循環のサイクルがずれているに過ぎないと考える論拠です。
西の世界が収斂に向っている時、東の世界は拡散に向っている、或いは逆かも知れないと言う事です。
これが日本にとってみればイタリアルネサンスに迄遡る500年の遅れなのか、鎖国時代迄の300年なのかは不明ですが、遅れと言わない迄もずれている事は確かな様です。
然し乍ら個人個人の波長と歩調が時として、大きな波と小さな波が交差する事があるように、西と東、北と南の波長或いは歩調がシンクロナイズして、調和する事も有り得ない訳ではありません。
次の表はポストモダンがヒューマニズムとナチュラリズムのハーモニズムになると仮定して、私が纏めたものです。
幸か不幸か日本は聖俗未分離のままモダンを迎え(これが真の意味でのモダンと呼べるか否かは別にして)やがてポストモダンの世の中を迎えようとしています。
この表を見て頂けばお判りになると思いますが、日本は丁度東と西の中間に位置し、そのままハ−モニズムに移行するのに一番都合の良い場所に位置しているのです。
今日本に何が必要なのかと言うと、スクラップアンドビルドなのです、つまりホ−リズムから一度脱却してハーモニズムにシフトするパラダイム・シフトなのです。
願わくば日本の個人がすべからくこの全と無の束縛から脱却し、個から全への循環システムに移行出来る様に祈るばかりです。
それだけが日本がポストモダンの世の中で名実共にハーモニズムをリードして行ける只一つの方策だと信じて止みません。
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