自伝

告白

ハワイから帰ってすぐ離婚し、やがて勤めていた会社も辞め、気に入らない物は全て排除して来た私は、それから自分との壮絶な戦いが始まるとも知らずに、こんな文を書いていた。

「三十八歳になって省みる」

「今三十八になって振り返ってみると、人生のそれぞれのステージで自分が悩み、苦しんだ事が中々思い出せないで、又同じ事で悩み始めたりしている。 一度解決したと思われる事でも、時が経つと、それがかなり安易な方法で妥協されていた気もする。 たまに思うのだが、今から十年前の方が今よりずっと何倍も大人であった気もするし、きっとその時は経験も少ないし、考え方も稚拙で、短絡的に独り善がり結論付けをしていたのだと思うが、それが却って懐かしく思われる。  その時代時代で、キーワードを見付けて敗北感から逃れて来た様な気がして、そのキーワードを後生大事にして、物事に対応して、自分では打ち勝って来た積りになっている。 例えば、人生のワンステージでと言う事にしても、何かある度にそう言って、前向きの姿勢で、悪く言えば誤摩化して過ごして来た。 自分の倫理規範にしても、基本的な自分の路線を決めて、それにある程度の振幅を持たせて自分を遊ばせて来た。 自分の能力の壁も見極めないでいて、それを打ち破る努力を怠っていたとも言える。 ある時何かの拍子にその壁から出てしまって、戻るに戻れなくなって、必死に元の線迄軌道修正を試みる。 その努力で、ある程度人間の幅と言う物が拡がって、物事に対応する時の余裕が出て来る。 何事にしても、上限を突破するのは容易な事では無く、上の幅が拡がれば、下の幅も拡がるので、落ち込みもそれだけ厳しくなって来る物だ。」

その時からも既に十四年余り経過してしまった。 以来私の宇宙は私の意志の有無に関わらず拡散し続け、今では自分の手に負えない位拡がってしまい、私の心と身体は否が応にも分断され、私の身体は尺度を失い、私の魂は拠り所を失ってしまった。 私の日常は最早日常とは呼べる様な生易しいものではなく、非日常性こそが私の日常と化してしまった。 それは恰も、強いオーデコロンを身体に着けた時と同じ様で、一度強い刺激に慣れてしまた私は、感覚が麻痺してしまい、矢張り素のままが善いと気付いて、再び何も着けない状態に戻す迄に時間が掛かってしまったのである。 追い詰められて行き場を失い、途方に暮れた私は、自己に沈潜し自分の中に収斂せざるを得なくなってしまったのである。

悪いのは全て私である。 今私の置かれている状況は、私が好むと好まざるとに関わらず、自分で造り出して来た物である。 私は自分の失敗を人のせいにする為に書く訳ではなく、しかも、「告白録」或いは「懺悔録」とかいう洒落たものを書こうという訳でもない。 言わばこれは、自分自身の「供述調書」とも言うべき、私の「自供」の記録である。 これは私の一方的な眼から観たものなので、或点では或いは公平さを欠く事があるかも知れない。 然しこれは純粋に自分自身の為の作業であるので、自分を良く見せる為に自分を偽り、真実から目を背けて迄きれいごとを書く必要性は皆無なのである。 これは正確に自分自身を掴む事が目的であり、事実を曲げてしまっては意味を成さないし、いずれにせよ私には事実の曲げ様も無い。 これは恰も私自身の私自身で行う裁判の様でもある。 原告も自分、被告も自分、判事も自分、検事も自分の裁判である。 只言える事は、弁護士が不在なだけである。 私には自分を弁護する気等さらさら無いからである。

最近になって過去を振り返ってみて、私の魂が私に何を望んで居たのかが、おぼれげながらに判って来た様な気がする。 それは普遍性の追求である。 普遍性の追求と言っても、左程大それたものでもない。 只、私の認識してる良識と、他の人の認識している良識が同じだったら良いなという、私の儚い願いである。 自分の良識が、かつてルネ・デカルトが考えていたボン・サンスと同じであったら良いなという私の願いであり、イエズス・キリストが見ていた神と、私が想っている神が同じなら良いなという私の願いでもある。 私の良識等他の人にとっては、クソくらえかも知れないが、でも私はクソを食って迄生き長らえたいとも思わない。 私の人生等他の人にとってはクソかも知れないが、でも私はクソ真面目なのである。 誰でも一番大事で、一番興味のあるのは自分の事であり、誰でも最初に知りたいのは自分の事である。 祖父には申し訳ないが、私にとっては、柳田國男のジュネーブ以降よりも、私自身のハワイ以降の方が重要なのである。 他人を客観視するのは簡単であり、誰にでも出来る。 所詮、他人の主観等、自分にとっては客観に過ぎないのであり、他人を客観視するのも、客観を客観視しているのと同じである。 客観視している積りでも、それは概して自分の主観だからである。 然し、自分を客観視するのは難しい。 下手をすれば、主観だけの人間になってしまい勝ちである。 これは自分にとっての絶対が他人にとっては相対であるのと同じである。 大事なのは、自分を客観視する事である。 サブジェクト・オブジェクトと言われているエゴを見詰める事である。 大事なのは自分を知る事であり、先ずは自分を知る事から始める事である。

人生の節目節目を振り返ってみると、そこには必ず仮面を被って本当の自分を見つめる事から逃げよう逃げようしている私が居る。 その節々で、いつも判った様な顔をして、それを人に語って聞かせ、自分の人生を綺麗にまとめあげようとしている私が居る。 振り返れば、私が実に幅の狭い価値観の持ち合わせで物事を判断して来たかが分る。 人に語って聞かせるのは簡単であるが、それを自分で実践するのは実に難しい。 私は今迄、自分の人生に於ける様々な出会いを通して、自分の上からメッセージが降り注いでいるのにも気付かず、人を傷付けながら進んで来てしまった。 私は、いつでも自分を正当化しようとして生きてきたのである。 それでも、正義を貫いていると思っていた私が馬鹿だったのである。 その時々で自分の行為にもそれ相応の理由はある。 然し人を傷付けて良い物かどうかは全くの別物である。 自分がいけ好かない野郎だったと安易に口に出しながら、他人には、自分で認めてしまうのは逃げであると言う。 それでも他人には、人は鏡であると言う。 私は今迄、「自分学」は永遠の哲学であり、「個人学」は永遠の科学であると人には言って来た。 大事なのは「自分」を相対化して、「個人」を括り出す事であると、偉そうに言っていた。 大事なのは主観を客観視する事であると信じ、自分でもそれを実践している積りになっていた。 私は今迄、自分の様々な経験を通してエッセンスだけを括り出した積りになっていた。 自分をさらけ出すのを極力遠慮して来た積りになっていた。 私自身の事等、他人に不快感を与えるだけで、出さないのが礼儀だと思っていた。 それでも人は私に、私のパンドラの箱を開ける様に言う。 開けても何等支障は無い、至ってオープンなのである。 只、人に不快感を与えたり、不都合を生じさせたり、傷つけるのだけは極力避けたいと思う。 何故ならば、悪いのは全てこの私だからである。 然し、自分を他人に理解して貰うには、自分をさらけ出す事が一番の近道であると、最近私は思う様になって来たのだ。 これを私が書いたからと言って、誰も見向きもしないかも知れない。 これを書いてから、私が死にでもしない限り日の目を見ないかも知れない。 然し私は他人を喜ばしたり、同情をかう為にこれを書く訳ではない。 ましてや他人を喜ばす為に死を選ぶ程人も好くない。 何が無かろうと、神が私に死を与える迄生きているのである。 私には自慢出来る物も、隠す物等何も無い、ありのままの自分を受入れて貰いたいだけである。 ここで私が、受入れて貰いたいというのは、何も一緒に居てくれという贅沢なものではない。 只、私に生きていても良いと言う自由を与えて欲しいだけなのである。

私は今迄、人から分裂していると言われようが、自分でも心と身体のずれを自覚していても、自分のこの惨めな肉体では、そこに宿った魂の歩調には到底着いて行けないとは感じつつも、魂が自分に命令するままに行動して来た積りである。 世界に足を一歩踏み出せば、見解の相違はごまんとあるのも理解出来る積りである。 それに直面して無情論を唱えるのも一つの方法だとも解る。 然し、私はどんな現実に直面しようとも、事実からら目を背けて、無情論だけは唱えたくないのである。 それは。人類が如何に救い様の無い動物だったたとしても変らないのである。 柳田國男も常に悩まされ続けた、常識の多様化を認める事は出来ても、良識の多様化迄は、私には認める訳には行かないのである。 何故ならば、私に取っての良識とは、私が選ぶ物ではなく、神が決めるものなのである。

用済の鎹

結婚して間も無い頃、私は生物学者の父に或質問をした事がある。 それは、人間の母親と言うものが、子供が育ってしまった途端に、子供に対する愛情を失うものか否かについてである。 父の口からは、それに対して何等明確な答は得られなかった。 三十四歳の時私は離婚して思った。 同じ年の時父は、末っ子の私を含む四人の子持ちであり、到底私には耐えられる様なものではないと。 五十過ぎになって私は、自分の人生を振り返ってみて、私が中学の時両親と共に一年間アメリカで過ごした時の記憶を辿る機会があり、その頃父は現在の私よりも若い、四十七、八だったという事を改めて思い起こし、あの頃が父にとっても人生に於ける最大の通過ポイントだったのかと、考えてみた。 私が離婚したときも、その四年後に会社を辞めた時も、母から、「私達だって何度も考えた事があった、だけど、彼方が居たから」と言われた。 俗に、「子は鎹」と言われている。 然しこれが、私の両親の場合に当て嵌まるかどうかは疑問である。 子供にとって、夫婦の表面上の関係を保つ為にのみ、自分達の存在を利用される事程迷惑なものも無い。 末っ子の私が結婚して、幸い私には子供が出来なかったから未だ救われているが、孫が育つ時に祖父母の間の葛藤を全てぶつけられて子育てをする親の身になって考えると、一番重要な時期に、一代前の悩みをインプリントされる事になり、再びそれを繰り返す恐れが充分にある。 幼少時にインプリントされてしまったものは、いつ出て来るか予想が出来ない。 これをどこかで断ち切らなければ、この悪循環は永遠に続いてしまう事にもなりかねない。 祖母が亡くなり、母が、「さあ、やっと私の番だ」と思い、したい放題をし出した時、私は離婚し、家を追放された。 母にとっては、やっと追い出した参男の私が離婚して出戻って来る事は、邪魔以外の何物でも無かったのである。 以来私は用済の鎹になってしまった。

ライオンは子供を谷底に突き落として、這い上がって来られる子だけを残そうとする。 これは、逆から言えば、弱い子供は間引きするという事であり、子供が邪魔だから追い出すという事とは全く違うものである。  「愛の鞭」、「可愛い子には旅をさせよ」と言う美名の下に行われる虐待に、真っ向から立ち向かい、三十八の時私は会社を辞め、四十代、五十代と人生の総復習に費やしてしまった。 これに反して私の両親は、六十代になってから、お互いの間の確執を子供達にぶつけ始めたのである。 私は以前母親に、「末っ子が四十半ばにして、こんんなに人生について考えているのに、一体彼方達は何を考えているのか」と、度々質問した事があった。 その度に母は、「彼方が一体何を解っていると言うの、私の魂は私が救うからいいわよ」と、私に食って掛かって来て、耳を貸そうともしなかった。 母も何か悩んでいたのも理解出来るが、果して、子供の魂を潰して、自分の魂を救う事が出来るものなのか私には疑問だった。 お蔭様でこの反面教師の存在で、私はやっとある程度迄自分を認められる処迄成長する事が出来た。 片や、八十代の両親の間の問題は悪化する一方で、何一つ良い方向に向っている物は無い。 申し訳ないが、私自身も、これ以上両親の、「用済の鎹」を続ける訳にも行かないのである。 これからも、又何が私の身に降り掛って来るかも知れない。 然し、今の私はそれを全て甘んじて受けるだけの心の準備が出来ているし、この世に思い残す事も何も無い。 只一つ私が救われたのは、強いて挙げれば、私が最後迄、事実から目を背けずに見続けた事である。 恐いのは、事実から目を背けて、それがトラウマとなって心の奥底に残り、次の代に引き継いでしまう事であり、我々のこの責任は幾ら拭っても拭い切れる物では無い。

親との確執

通常自伝と言う物は、両親との関係のみならず、兄弟との関係迄も記さなくてはいけない処なのだが、これは私自身の「自分学」であり、兄弟との関係は私にとっては、副次的なものであり、両親との関係を抜きにしては考えられないものであるので、ストーリーの中に度々登場する兄や姉の個人的な性格を論評する積りは私には一切無いので、敢えてそれはしない。 私は基本的に自分より若い人間の行く末は、前の世代の人間の責任の下に考えられるべきであり、成人して独立する迄とか、結婚して独立する迄の慣習的或いは制度的なものではないと信じ、いやしくも自分の世代の責任を若い世代に押し付ける事は断じて避けるべきものと信じるものである。 親より先に子供が生まれる事等有り得ないからである。

思えばあの両親に悩まされ続けた半生だった。 母が作為的悪だとすれば父は不作為の悪である。何れにせよ、二人とも悪なのである。 私が会社を辞めた時も、私の精神状態はとても仕事を続けられる状態じゃなかった。 これを読まれた方は、私の事を、親を悪く言う何と出来が悪い息子なのだとお思いになり、お怒りになる方も居られる事と思う。 然し、過去の事ならいざ知らず、両親が健在の時に、今尚継続されている事から目を背けて迄、親を美化する事等、出来の悪い私には到底出来ないのである。 私は自分の身内だけを、特別に身びいきする程器用に出来ていないのである。 これは私に取って、避けては通れない内省への道なのであり、私がこの体験を通して括り出した問題点は、私の個人的な悩み或いは葛藤から来る、私固有の問題を既に通り越してしまったのである。 今更私のちっぽけな人生等どうでも良いのであり、今となっては、私は親を恨む気持のひとかけらも無いのである。

大体文を書き続ける人間はそれなりの疑問があるからこそ問題提起しているとも言える。 人間は何か問題を抱え込んだ時、その問題が自分のエゴから生じているのか、先ず自分にぶつけてみるものらしい。 そこで初めて普遍的な問題を括り出せる力が出て来るみたいである。 私がこの三十年母親の乱行で心を痛め、それを阻止する為に積極的に戦って来た歴史と、そのお陰で彼女からひどい仕打ちを受け続け、結果的に自分探しの旅に終止符を打つ事が出来た事の因果関係はぬぐい去れないのである。 こんなに遊んでいて、今更ストイックもへったくれも無いかも知れないが、私がこれだけストイックになったのも両親を見て育ったからに他ならない。 「天才が出た家では人には言えない暗い陰が付きまとうものである」と最近友人の一人が私に電話でポツリと言ったのが耳に未だ残っている。 人は、柳田國男を評して、若い頃のニューラル・プルーリングが良く出来たからであると言うかも知れない、或いは、彼はサヴァン症候群であると言うかも知れない。 然し実際問題として、そんなに簡単に解決してしまっても果して良いものなのだろうか。  今迄自分の親がどんなに変っているか、友人、知人達に判って貰いたいと思った事が何度もある。 その度に、「お母さまがそういう事をするのは「可愛い子には旅をさせよ」と思ってらっしゃるからよ」とか、「愛の鞭よ」とか在り来たりの答が返って来て、失望させられたものである。 それ以来、気の置けない友人にしか家の事は話さないようにしている。 子供は親に反抗する時よく「頼んで産んで貰った訳で無い」と言うが、私の場合はそんな生易しいもんでは無い。 最近「産んで呉れて有難う」と言うのが流行っているみたいであるが、あんな欺瞞的な言葉を良く吐けるものだと感心する。 言える人が羨ましい、私には口が裂けても言えない。 私の事を良く知っている友人には「お前の波乱に富んだ人生を本にしたら売れるぞ」とよく言われたものであるが、その度に、「そんな事をしたら、姪とか甥が結婚出来なくなるよ」と答えていたのである。 これがもし公になり、これが元で姪とか甥の結婚に支障を来たしたら、ひとえに私の責任である。 いつも私を見て、あいつの家は恵まれているからと思い込み、それだけを自分の励みにしている人間には申し訳ないが、私はいつ迄もその人達の為に、恵まれた家庭に育った坊々の見本で在り続ける訳には行かないのである。

何を始めるにしろ、私はこの母親を乗り越えてからでないと、何も出来ないのだ。 以前私が友人とアメリカン・コンテンポラリーアートを扱い始めた時も、知り合いに協力し て貰おうと思い相談した処、「彼方のお母さん、銀座の画廊で評判悪いのね」とスキャンダルを教えられ、愕然とした時もあったのである。 全ての畑は、蹂躙という言葉がぴったりな程母に喰い尽くされ、身動きが取れない時が多いのである。 この間も知人と論文の事を話していた時、話題が両親の事になり、相手に「どうして離れないんだ」、「何が目的なのか」と聞かれた時、思わず自分は「使命感」と答えていた。 そうなのだ、使命感なのである。 その時から私のしている事を、「ミッション・インポシブル」と呼んでいる。 逃げようと思った事だって何度もある。今だって使命を果しさえすれば、家族もいないのだし、もっと物価の低い海外にでも行こうと思っている位である。 國男流に言えば、自分は「無縁様」と言うらしい。子供もいないし「先祖」にもなれないし、日本では「神」の仲間にも入れないのである。 只、昔は「みたま様」という一つの霊体に溶け込んでしまうとされていたらしいので、「みたま様」候補とでもいう処である。 日本にも両親にも何の未練も無い。只祖父だけは別である、これだけ息子夫婦にないがしろにされた祖父を放っておいて、海外に逃げる事なんか自分には出来ないのである。

母親

それは長兄が結婚した当時から始まっているから、今ではもう三十年にもなる。 それ以前にも、色々あったが、高じて来たのは家に他家からの女性が入ってからである。 未だにはっきりと思い出すのだが、会社が終わって家に戻ると、母と年子の兄が連れ立って食事に出掛け様としていたので、自分も未だ食事を済ませていなかったので同行する事にしたのだ。 テーブルに着くやいなや、母が兄嫁に対する悪口を言い始めたのである。 洋服のセンスが悪いだとか、大した内容のものではないが、聞くに耐えないので、私がその時、「嫁を虐めるのは止めろ」と言うと、今度は兄と二人掛かりで、私の生活態度に始まり諸々の事を言い始めたのだ。 余りにも気分をこわしてしまった私は、食事の途中で、隣の町から家迄歩いて返った記憶がある。 その時から、家族がバラバラになり、皆諦めて大人しくなる迄の数十年間、母の嫁いびりは続いたのである。 皆が疲れてしまい、大人しくなると、最近は皆と仲良くなって、私は善い姑だったと思うと独り善がりな事を言ったりもして実に滑稽である。なんせタフな女性なのである。

私が丁度結婚した頃、母が「緑蔭小舎」という画廊を、さる著名な作家のの落胤である事が判明して一時評判になったK氏と始め、私はその時東急百貨店の貿易課に居て、母が柳田國男の書斎後を画廊にした事が新聞等で話題になる度に、私の上の課長が、母が毎回、「父が、父が」と語る記事を見て、「みっともないから止めろ、とお前の母親に言え」と、いつも私に言っていたのを思い出す。 その時私は母に、「嫁なんだから、義理の父とか、舅とか、言った方が良いのじゃない」と、いつも言っていたのだが、その度に母は、「だってお父様が父で良いって仰ったのよ」と、母の傀儡だった、私の父をいつも引き合いに出して来たのである。 その頃から私は母の事を、傀儡師と呼んでいたのである。

母はその頃から、父を放ぽり出していつも画廊で社交に精を出していた。 私も、一度画廊のパーティーに出席した事があり、その席で、私達夫婦の買ったパステル画の話になった。 その時母が「この人達の買う絵なんか、芸術じゃない」と列席の方達を前に言ったのである。 その絵は、世田ヶ谷在住の当時から著名な画家の絵である、母はそれすら知らなかったの だ。 母は私の英語の能力についても、いつも、「彼方の英語なんか、汚くて公式の席じゃ使えないわよ」と、私の話す英語でさえも腐していたのである。

私は時々、果して母の真の目的は何なのだろうと考え込んでしまう時がある。 柳田家で独り柳田の血が入っていない母が何故、祖父の名を語りたがるのか? 一説には、早くから父親を亡くし、祖父を実の父と勘違いしているのではないかとも言われている。 彼女には元々確信犯的なところがあるから、これもその一つなのかも知れない。 血が入っていないからこそ出来る所業の数々私には良識が邪魔をして全ては書けない。 思い出すだけでも金縛りに会った時の様に、胸に何か重いものがズシンと響き、二、三日は回復出来ない程の疲労感が身体中を駆け巡る。 私にはそれが、柳田家に対する復讐としか思えない時があり、こんなにも子供の良識に乗っかってしたい放題をする、こんな事が許されて良いものだろうかと思うのである。 相手の良識を利用している人間に勝つ事は出来ない。無理である。 子供は親の悪口を言わないという前提の元に優位に立って、子供を悪く言って歩く親に果して打ち勝つ事が出来るものなのだろうか。 それでも彼女はカトリックなのである。 親父との間に何があったかは知らないが、ここ迄母が自我を押し通そうとする動機は一体何なのだろうかと常に思う。

以前母がよく言っていたのだが、当時母は平民出身だったので柳田の家に嫁いでから虐められたらしい。 その頃は未だ戸籍に士族とか平民とか記載されていたと言う。 だが、父の配偶者を選ぶ際、強い子が産まれる様に、「女は強い方が好い」と、祖父が彼女を選んだという話もある。 学者だった父と旨く行かない母は、家から学者が出る事を極力避けようとし、姉がインディアナ大学で、民俗学の修士迄取りながらも早く帰国させられ、その後すぐに母にせかされる様に結婚させられ、学問の道を閉ざし、自分で見付けて来た縁談にも関わらず、その結婚にけちを付け続け、挙げ句の果ては御仲人をして下さった方に迄迷惑を掛け、兎に角したい放題の生活をし続けているのである。

私は正直言って、私の五十年の人生の中で、ここ迄節操の無い女性に今迄会った事が無い。 嫁はいじめ放題、それを批判する息子には冷や飯を食わせるは、四人いる子供を仲違いさせようとするはと、何でもありなのだ。 各々の子供に違う事を言っているのが露見しない為である。 バブル景気をいい事に、相続対策の名の下に銀行から金を借りマンションを建て、余分に借りた金で絵を買い込み、景気が悪くなればそれらを、國男ゆかりの市町村へ売り込もうとする。 彼女は一体文化を何と心得ているのか、私は彼女の良識を疑う 飯田市に嫌われれば遠野市に持ち込む、一度世田谷区に寄付した祖父の隠居所も、気が変わり遠野市に引き取らせる。 参男(私)はそれらに勇敢にと言うか向こう見ずにというか、真正面から立ち向かうが母の雇った弁護士の手であえなくダウンしてしまい、その後数年間、母は息子達の手の届かない遠野市を本拠地に、ある民俗学者の先生の後ろだての様な顔で我が物顔に振る舞い、周囲の注意を引こうとしている風である。 その後、その先生が言う事を聞かなくなったと別の先生に鞍替えしようとしているのが、実際の私の母の姿である。  この原因はすべてだらしのない父にあるとは言え、女として、妻として、嫁として又母として、他にやり様は無いものだろうか。 彼女が虫も殺さない顔をして、「私はおさんどんが専門だから、民俗学の事は知らないの」と言いながら祖父の事をしたり顔で語る姿は孫からすると、見るに耐えない。 血が繋がっていないからこそ出来る暴挙である。 一度私は思い余って母に、「貴方には僕の血が入っていないから可哀相だ、僕の血が入って入れば、もう少しは分別が付いたのに」と言った事さえあった。

父親

父はと言えばからきしだらしが無く、私は父を大人になりきっていない、世界一卑怯な小心者だと思っている。 それに今迄何度騙された事だろう。 奔放に生きる母に対する愚痴を何度も聞かされた、その度に私はそれをまともに受けて母に忠告したりする、父は本人の前では、「僕はそんな事は言わない」としらを切り通すのである。 矢張り二人は夫婦なんだと、そんな事がある度に思ったが、次の時は又人好く騙されてしまうのである。 我々が小さい時分は神経質でいつも苛々していた記憶しか無い。 父がお土産に何か買って来て呉れたのは、覚えている限りでは一度である。 すぐ上の兄と筆者の二人に絵本を買って来て呉れたのが最初で最後である。 きっと自分が四つ位だった頃だろう。 聞けば酒も四十になってから始めたそうである。 或晩帰宅した父は筆者がお帰りなさいの挨拶をしなかったと烈火のごとく怒った。 これが筆者の物心付いてからの父に対する第一印象である。 次に覚えているのは、或日泥酔して帰宅した父に母が洗面器で水を掛けるという事件が起った。その途端父が暴れだしすぐ上の兄と毛布を掛けて取り押さえた記憶がある。

母が画廊をやっていた頃、筆者は父親を少しでも理解しようと、野鳥の会に入った事もあった。父の誕生日が丁度五月十一日で、バード・ウイークの初日だからである。 コンラート・ロレンツ博士の本を読んだりして、自然科学を理解しようと努めていた事もある。 しかし努力は無駄に終わった。ハワイに転勤になったからである。  一時父が飲み過ぎで肝硬変で倒れた事があった。 私は心配して、その時執筆していた、動物名辞典を誰に頼んで完成させれば良いのか訊ねた時があった。 その後も一度、それをコンピューターのデータ・ベース化したらどうかと話しを持ち掛けたが、そんな内容の定型化なんて絶対出来ないと烈火のごとく怒ってその話は終わった その後自分でやると言って、ワープロの易しいのを買ったが結局使えなかったらしい。 父にはこちらの思いやりなんてものは、これっぽっちも通じないのである。 結局その辞典も未完に終わってしまったと聞く。

父は養子の祖父を馬鹿にして自分こそ柳田であると思っている節が見られる。 これは祖父の大きさに対するコンプレックスと思われる。 父は祖父の事を柳田家の十二代めに過ぎないと思おうとしていた節も見られる。 故意に祖父の名声を無視しようとしていたのである。 そのくせ、自分が祖父の事を一番良く知っていると内心は思っているのである。 父と話すとたまに祖父の陰に怯えていたのではないかと思われる節も見られるのである。 父が自分に話す事は、父が日頃祖父から言われていた事なのではないかと思われる事があるのだ。 先日、筆者が父に「人間を一言で括れば、馬鹿だよね」と言うと「お前はデカダンだ」と言下に言ったのである。 その時筆者は、自分こそあんなデカダンな生活をしてたくせに、変な事を言うなと思ったのである。 きっとこれも祖父から言われた事なのではないか。 あの、小さな子供だった私を捉まえて、「本質的な事を言え」と言っていたのも父が祖父から言われ続けていた事ではないのか。 筆者が父に一度怒った時、父が「芳秋に怒られていると、何故か親父に怒られている様な感じだ」と言った事があった。 筆者の語り口調が祖父に似ているらしく、以前成城小学校で教鞭を取っていた、庄司先生とお話した時も「芳秋さんがそうやって、夢を語っているとまるで柳田先生と話しているみたいだ」と仰られた事がある。 父に哲学の事を話していた時、父が「あの趣味的なものでしょ」と言った事があった。 思想の科学の会合にも参加していたという父が、いつ哲学から離れたかすらも語られる事はないのである。 「趣味」というのは祖父が好んで使用した表現である事を、筆者は後から知ったのである。

未だ健在の父親に訊ねてみれば良いとお思いだろうが、父は自分のトラウマの部分に触れられると、全て否定するのである。 彼の思考回路は既に何処かで切断されていて、まともな話が出来ないのである。  父は元々ジャーナリスト志望だったそうである。 その頃祖父は朝日新聞社の論説委員だったので、父には向かないと判断し、その頃必要性を感じていた、自然科学方面に進む様に勧めたらしい。 当時の大学は祖父の頃と違って途中から進路を変更する事等考えも及ばなかったのだろう。 一度私は、親父の高校時代の日記を眼にした事があった。 それは民俗語彙集のようであった。その父が自然科学に進んだのは今以て謎である。 それが証拠に、父は退官すると同時に、曾祖父の日記を整理し始めたのである。 私にとっては祖父の事を調べる方が、父の事を調べるよりも簡単なのである。

子供の事

私には子供が出来ない。 その事は私が結婚して少ししてから判った。 結婚してそろそろ子供が欲しくなった女房が先に病院で検査を受けて、自分に異常が見付からなかったので、私も調べていみてと言われ、女房の実家の近くの北里病院で検査を受けてみた。 ヌード写真を渡され便所で精液を試験管に入れされて屈辱的だと思った。 最初に産婦人科で診てもらった時は優しい年配の先生で、穏やかに、顕微鏡で観た限りでは、一視野の私の精子の数が少ないと診断され、その時は未だ少しは希望が持てた。 念の為にと紹介された泌尿器科が最悪だった、ヌード写真は二度目だったので、最初程気にならなかったのだが、そこの若い医者が最悪だった。 人の肛門に指を突っ込み、変だなと首をかしげて、少ししてから、勝ち誇った様な顔をして、「これじゃあ駄目だ」と鬼の首でもとった様な顔をしてそいつは言ったのだ。 「柳田さんは、睾丸の成長が足りないから精子が出来ないんですよ」、続けてそいつは、「普通はゴルフボール位の大きさがあるんですけどね」と、さも人を馬鹿にした様な顔をして言った。 私もその件については前々から心配していて、学生時代にも次兄に相談してみたりしていたのだが、何せ他人に見せる様な場所でも無かったので、自分の胸に秘めていたのである。 それに実用には何等問題が無く、機能していたし、結婚する迄は片方の機能さえさえ働いていれば問題は無かったのである。 自分はその時程屈辱を味わい、医者に怒りを感じた事は無かった。 それから暫くの間セックスもする気が無くなってしまった位であった。 行き帰りの通勤電車の中でもいつも兵隊が戦争に行く時に持って行った、携帯用のロザリオを握り締め、窓から外を見ながらいつも祈りを唱える毎日だったのである。 その頃丁度風疹だか、三日麻疹だかが流行っていて、当時私が配属されていた、貿易課の上司が、「お前のお母さん、お前が生まれた時、風疹に罹っていたんじゃないのか」と、私をからかったので、家に帰ってから、そのまま母に訊ねると、母が烈火のごとく怒ったので、そのままになってしまった事もあった。 その後暫くしてから母が、「最近フロリダの研究所で、戦後日本に送っていたララ物資の中に、戦後のベビーブームを防ぐ為に、性欲抑制剤を入れたので、貴方達の年代の日本の男には子供が出来ない人が多いと発表されたそうよ」と、如何にも尤もらしい顔をして言ったの私は、「本当かいな」と首をかしげてしまった。

結婚する前に学生時代付き合っていた元の女房と一時別れて、その反動でこれでもかと言う程遊んでいた頃、よく、「こんなに避妊に気を使って、本当に子供が出来なかったらお笑いだな」と言っていたのを思い出し天罰が下ったと思った位ショックだったのである。 その事を次兄に又相談すると、自分も心配していたらしく、「俺だって子供は出来ない」と突然怒り出したのである。 私が、「調べたのか」と聞くと、「俺は生物学者の息子だ、それ位調べなくたって解る」と増々怒ったので、私もそれ以上続けられなくて、それっきりになってしまったのだが、それ以来私は、「悩んでいたのは自分だけじゃなかった」と仲間を発見して、少し安心していたのだが、離婚してから一時私が成城の家に住んで居た時、次兄は嫁さんの実家の傍の早稲田のマンションに住んで居て決まって二週間に一度実家に御機嫌伺いに来ていたので、それが丁度窓越しに見えて、「あれ、変だな」と思って良く見ると、どうも嫁さんの腹がでかくなっているみたいだった様に見えたので、二人が帰った頃合を見計らって、母に電話してみると、「そうなのよ私も知らなかったのよ、もう八ヶ月だって」と言ったので、「こいつしらばっくれやがって」と感じたものだった。 二週間に一度顔を出している人間の腹の大きさに幾ら個体差はあると言ったって、それに気が付かない母が余程間抜けか呑気に見えたのだ。 その時私は嫌な予感がしたのである。 私は大学で親族相続法のゼミを取り、卒論のテーマが「人工受精児の法的地位について」だったので、次兄が以前私に自信ありげに言った言葉を思い出していたのだ。 通常の人工受精では、弱い精子を幾ら混ぜても、卵子に到達出来るのはドナーの精子であり、試験管で無理矢理弱い精子を受精させれば、本来生れて来れない筈の命が誕生する恐れがあり、カトリックの私には当時考えも及ばない神を冒涜する行為だったのである。 私はその時、次兄が一人娘と結婚した立場の弱さに負けて変な気を起こしていない事だけを祈ったのである。 二ヶ月後に生れた子供は案の定、身体の不自由な子供だった、それを知った私は愕然とし、運命の厳しさを感じた。 その後少ししてから次兄が兄嫁の実家に養子に出たと私に伝わって来た。

離婚をした時にも、会社を辞めたときにも、私が両親に相談すると、「私達だって何度も考えた事があった事か」と言い、その後に必ず、「貴方が居たからよ」と私を引き合いに出され。 その後も、父は、「日本人の十人に一人は子供が出来ない、家の親戚にだって子供の出来ない夫婦は幾らでも居る」と、さも自分は生物学者であるという様な顔をして、まるで他人事の様に言い、母は母で、「いい加減貴方も、子供が出来ないという事から卒業しなさいよ」と冷たく言い放ち、「なんて冷たい人間なんだ、どうやって子供が出来ない事から卒業するのだ、俺に死ねと言うのか」と、両親を何度恨ん事か知れない。  私も離婚したばかりの頃は、一時は自棄になって、「遊んで安心柳田の水鉄砲」とか「俺のはセイフティートーイ・マークが付いているから大丈夫」とか遊んでいた時もあったが、その頃の私は、両親の結婚自体に疑問を感じていて、二人の相性に問題があり、自分の性格も二人の一番悪い部分を受け継いでいて最悪だと思っていた。 その時よく友達に、「俺はライオンと豹の間に生れたレオパードだ」と、強がって冗談で言っていた時があり、それには深いシック・ジョーク的な意味合いが含まれていたのである。 私が007の映画を観ていた時、映画の中のボンド・ガールの一人が、ジェームズ・ボンドに迫られるシーンで、「アイム・ア・ミュール」と言った時、確か字幕に、「私は不感症よ」と出たのだが、その時私が、騾馬は一代限りという事を思い出して思い付いたジョークだったのである。 その実、私は内心自分は馬とロバの間に生れた騾馬だと思ってたのである。  若い内なら未だしも、もう一度位落ち着いた生活がしたいなと思うと、本当に惨めな気持になったものである。それでも付き合う女の子には最初から自分に子供が出来ない事を言えず、関係が深まって彼女がもう逃げないと思った時にしか打ち明けられない自分の行為をまるで詐欺まがいだなと思っていたのである。 女の子に「生まれて初めて誰かの子供が欲しいと思ったのに」と泣かれるのが一番辛かったのである。 仲間に悩みを話しても逆に勝ち誇った様な顔をして、無神経に、「お前種無しか」と言われるのが一番辛かった。

最近になって私は、ひょんな事から母が父に宛てた黄ばんだ葉書を見てしまった事があり、その中に母が甘ったれた感じで、「私、今日もヒロポンやってしまったの」と書いていたのを発見して、再びあの頃の疑惑が私の頭の中をよぎってしまい、母に言うと、「私がヒロポンなんてやる訳が無いじゃないの、だってあれは高いのよ、お父様が私に呉れる訳が無いわよ」と真っ向から、私が見てしまった、黄ばんだ葉書の存在すら否定されてしまった。 私は、当時ヒロポンが安かったのか高かったのかが知りたかった訳じゃ無くて、只、私についての事実が知りたかったのだ。 母が「お父様が」と言って、父を引き合いに出す時は、必ず何か不都合な事がある時で、それならそれで、その葉書を証拠に押収しておけば良かった。 少なくとも日付け位は見ておくべきだったと、返す返すも口惜しいとその時感じた。 何しろ私の家はエニグマが多くて、民間伝承の本家本元とは言えない柳田家なのである。 今の私は、自分に子供が出来ないのは、神の思し召しだと感謝している。 両親の悪い性質だけを受け継いだ激しいこの私の血を受け継いだ子供は、社会に出てから苦労するだけだと思うからである。 神は私の事なんかお見通しなのである。

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