学者諸君は果たして柳田國男を理解しているのか

こないだ「プレモダンの社会でポストモダンを語るのは虚しい」と言う言説を「馬鹿でも判る事を言って」と逃げた東大説法の人がいたが、馬鹿でも判る事を自分は猿だったから判らなかったのじゃないのか。

吉本隆明が「原発を止めたら猿になる」って言ったのだって、それって普遍主義の国の事でしょ、科学の目的である全能性の追及姿勢なんて日本にはないから原発は人類の叡智かも知れないけれど、少なくとも日本人の叡智じゃないんだよね、つまり日本人は猿だからでしょ。

それに最近は最後に柳田國男を少し纏めて、日本人論を済んだかのようにするのが流行りみたいだけど、これで人生の纏めを兼ねるのは一寸さびし過ぎやしないかい?

日本人が論理的で無い事は結論付いてるので今更逆行的な指摘はしたくないのだが、俺は柳田國男が括り出したものは悉く近代文明にそぐわないものだったと言って憚らないし、柳田國男自身だって、「賢こい少数の者に引きまわされる危険は、今とても国を脅かしている。判断を長者に一任するという素朴さは、もとは国民の美点だったかも知れぬが、その美点もこれからは改めて検討し、弊害があると心づいたら改良しなければならぬ。」と言ってるじゃないか。

「私はいつでも現在にとらわれている。変化を受けた、いろいろの影響を受けた日本人を知りたいという心持をもっている。しかしそれをやっておったら研究が非常に複雑になる。なんなら今から若い人たちの見方に加わってもよいが、もとは古い旧日本だけに力を傾けていた。少しく妥協的に聞こえたかもしれぬが、私は久しいあいだ「日本人らしさ」という言葉を使っていた。若い人たちはそれを解して、西洋の文明を受けて生きておくこともその「日本人らしさ」のうちのように考えたかもしれないが、自分だけはそれを固有のもの、開港以前からあったものというつもりだった。あるいは二つに分けて、現代の日本人らしさを知るのを、第二部とでもいっておいたほうがよかったろうか。」

ここまで言ってるんだぜ、何故第二部に掛からなかったのさ、柳田國男が歴史はさかのぼるものなんて言っても、何せ自分が入ってない日本人は柳田國男の時代から遡ることしか出来なかったんじゃないのかい?
ってな訳で、事ある毎に柳田國男を引き合いに出す信者ってのは、彼を本当に理解してるのか疑問なので、もう一度検証して見る事にした、幾ら柳田國男が「少なくとも自分に不都合な事実を書き残したものはない、隠すのをまた当然の所業としていたのである。」なんて言ってても、都合の良いところだけ枕詞みたいに引用しちゃ駄目だよ、

「この自然にしてまた普通なる眼前の生活上の疑問が、右にも左にも解答ができぬようなら、人間の智慧もいらぬもの、学問とても無益なわざと言われても是非がない。」 って柳田國男だって言ってるぜ、その孫に、大体先日亡くなった柳田國男の後継と自負する一匹狼民俗学者が「お前の疑問なんて関係ない」と怒鳴ったんだぜ、その上「悔しかったら何か一冊自費出版でも良いから書いてみろ、読んでやるから」だぜ、俺はそんならやってやろうじゃないかと祖父を研究し出したんだ。

「古風な英雄伝的な研究方法では、とうていこの方面の学問を、お互いの実生活に結び付けることはできず、いつまでも勉強はお前の勝手、世間は別の途を進むという今日のありさまを、続けなければならぬのである。」

これが俺が常々指摘する分科された学問と言う意味での科学の弊害なんだよ、所謂専門馬鹿って奴、専門家は南アフリカのダイアモンド鉱山みたいに自分の分野を只掘り続けるだけ、たまには上から鳥瞰的考察なんてやったら良いと思うんだけど、いかんせん日本には哲学が無い、これこそ柳田國男が指摘する「綜合なき学術」 なんじゃないの?

「私は学校にいる時分、外国の本で経済学を教えられた人間だが、今日に至るまでも実は本と自分の生活とが、はだはだになって繋ぎ合されぬのに困っている。」

俺が最初に疑問に思ったのがこれなんだよ、教育と実社会の齟齬だ、結局研究をしてみたら輸入の社会システムは建前で本音は世間であり、教育は建前で本音は苛めだと判明したわけさ、大体俺は柳田國男なんて読んだ事もなかった、会社を辞めて人生を一度白紙に戻そうと予備知識の無いうちに自分は何が不満なのかを『ワンネス』って小冊子に纏め名刺代わりに配っていたんだけど、イタリアルネサンスの研究をしていて國男がビーナスの誕生を見て『桃太郎の誕生』を著したと知り、俄然興味を持って読み漁ったら何のことはない、皆祖父だって指摘してたんじゃないの。

でもな柳田國男の時代がそうだったのは理解できるぜ、でも柳田國男監修の国語の教科書で習った孫の俺の代でもそうだったんだからどうしようもない、この文を見つけた時はなんだよ爺さんも同じ事考えてたんだって思ったぜ。

「学者は今まで、めったに判らないと答えた人がいなかった。だから現在知っているだけの事実のみによって、さしあたりの答を作るのであった。人を欺くまでの悪意はないにしても、少なくとも自ら欺いていたことは、古来の学説の瞬間も休まずに、次々と改訂せられて来たのを見ても明らかである。口にするさえも情けない「日本はなぜ敗れたか」、もしくはどうして今日のごとき状態に陥ってしまったか、答はここにあるという人がいくらあろうとも、今までお互いがまるっきり心づかなかったことがこれほどあり、まだこれからも次々とあらわれて来そうな形勢に直面しては、とうてい私たちはそのでき合の答を受け取って、さようでしたかと言っている気にはなれない。」

これなんだよ、俺の親じに日本には科学の発生する土壌が無いって言ったら、「日本にも科学はある」って一言言って押し黙ったのを今でも思い出すが、その後だぜ、東大の渡辺先生が『科学史事始』で同じ事を書いていたのは、「馬鹿にでも判る」なんて逃げてる場合じゃないのよ、自分は猿だから判らなかったって謙虚にならんといかんのよ。

「本で外国の理論を読むことも参考にはなるが、それが果して我々の場合に、きっちりと当てはまるかどうかはまた一つの問題である。ことに政策の模倣ということは、日本の新文化の最も醜陋なる一側面であって、近い過去の経験を回顧してみても、まぐれ当りにも当ったものが半分には足りない。」

柳田國男はこう言ってくれてるけど、本当は外国の理論なんて日本には当てはまらないって気がついていたんじゃないのかい?

「日本を世界中で話柄のおそらくは最も乏しい国、会話の最もつまらない国にしたのも、責任はこの歴史教育の限定にないとは言えない。旅は面白いかも知れぬが見て来た者は一人、めったに私も知っているという土地の話はできない。万人共同の興味は毎日の生活だが、老人が見聞を語らず、聴いて印象を保つ若い人々がなかったら、互いに顔を突き合せてわかり切ったことばかりをくどかなければならぬ。だから天気の話がすめばたちまちめいめいの健康を問題にし、少し時間がたつとすぐに人の蔭口になってしまうような、いとわしい社会相が出現するのである。」

これでしょ、今ツイッターフェイスブックで皆が盛んにやってるのって、柳田國男の時代はコンピューターなんて無かったけど、それからちっとも進歩してないじゃないの。

ここで俺が言いたかったのは、自分の論文にはくをつける為に枕詞に柳田國男を利用してるだけで何も理解してないって事なのよ、学者諸君は、いい加減に柳田國男を利用するのやめたらどうだい、俺の爺さんの禿げ頭幾ら叩いても文明開化の音は聞こえて来ないぜ。

【日本は全近代社会の儘】

 

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