<序>


自分が無いから自分と向かい合う事もない、

自分と向かい合わなければ哲学も生まれない、

哲学がうまれなければ個の確立も出来ない、

個の確立が出来なければ神も居ない、

神が居なければ正義も生まれない、

正義がうまれなければ道徳も根付かない、

道徳が根付かないと、

嘘が蔓延する、

嘘が蔓延すると、

真善美を美善真とする真実が最後に来る美意識先行型の社会が出来上がる

それが日本だ。

自分が全てなのです。


わざとなのかたまたまなのかは定かでは無いが、日本人は自分が全てである事を教えられていない、


近代文明を乗り切る為には必須であるにもかかわらず、どの時点でもこれを習得する機能が欠如している。

いち早くこれを教育システムに取り入れないと日本の属国化は益々スピードを増すに違いないのだ。

思うに柳田國男の社会科の教科書が検定落ちした頃、つまり『菊と刀』が翻訳された頃から仕組まれていたのではないかとも思われるな。


つまるところ、日本の社会はデカルト以前の所謂聖俗未分離、個の確立していない社会なので、海外の学説は適用出来ない、いわばこのソフトはウィンドウズ95には対応していませんて感じなのよね。

って事は今みながああでもない、こうでもないってやってるのが皆無駄かもしれないって事なんだ。

つまり、総論に問題がある時に各論を幾ら弄繰り回しても問題は解決されないと言う事、先ずは総論の間違いを正そうと言う事なのだ。

「私は学校にいる時分、外国の本で経済学を教えられた人間だが、今日に至るまでも実は本と自分の生活とが、はだはだになって繋ぎ合されぬのに困っている。」柳田國男だってこう言ってるではないか。

個人学講義1

個とは何ぞや
テーマ:近代文明学総論
個とは一人と言う意味である、つまり一と言う事である、

念のため広辞苑を開いてみた。
個・箇(唐音)1.ひとつの物。ひとりの人。多くの中の一つ。
        2.物を数える語。
とあった。

個は英語のindividualの訳であり、individual=indivisible=分ける事が出来ない、分業をdivision of lavourと言う様に、つまり分業が出来ないと言う意味であり、分業が出来ないから自分でやるしかないと言う事である。

日本ではtake care of yourselfと言うのを、気をつけてと訳してしまうので、判りにくいが、これは自分で自分の面倒を看なさいと言う事である。

アメリカでは分業出来ない、分業出来ないと毎日マントラの様に唱え、自分の事は自分でしろと年がら年中言い合っているからこそ、皆個が確立されているとも言える。

日本では個=私と捉えている人が多い、捉えると言うより勘違いに近い、僕も現に何人かの人間から個と私と言う言葉を聞いた事がある。

個の対にあるのは全であり、私の対にあるのは公である、公私混同ならぬ個私混同である。

僕が、「私権の行使と個人の自由を同次元で捉えている限り、個人の自由は理解出来ない」、と言うのもここにある。

僕はよく、「自分の自由と個人の自由は違う」と言うが、自分を限りなく客観視(相対化)して括り出された普遍的な概念が個だからである。

最後に、これも僕がよく言う極めつけの言葉を紹介しよう、

「個を外側に貫けばイギリスに居ようがアメリカに居ようが、オーストラリアに居ようが風波が立つ、何故ならば、個は内側に貫くものだからである。」

「神が居ないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神が居ないのである。」

個人学講義2

自己中は駄目か?

今日は、「個を外側に貫けばイギリスに居ようがアメリカに居ようが、オーストラリアに居ようが風波が立つ、何故ならば、個は内側に貫くものだからである。」について考えてみよう。

世に自己中つまり自己中心的な人間は非難される、勿論他人のことを慮ることに越したことはないが、日本人の場合兎角蚊帳の外、われ関せずエンってのが多い、

ここで仮に、自己中心を中心にしてそれぞれ両サイドに、自己遠心、自己求心と言う状態を考えてみると面白い、ここのリンクにもある自己求心中心、self insight centreの図星、つまり弓道、アーチェリーの的みたいなものである、的を射ている事を図星と言うのもここから来てるのだろう、出来れば二次元ではなく、三次元の同心円的なものをイメージして頂くと判り易い。

(自己遠心も自己求心も僕の造語の為、ググっても出てないかも知れません。)

つまり、自己中心を自己求心への過程と考えると、自己中心もまんざらではなくなって来るのである、少なくとも自己遠心よりも余程良い。
自己中心的な態度を取り続ければ自然に四面楚歌になり、孤立する事になり、その孤立した時こそ、自己求心つまり、内省する良いチャンスであると言う事でもある。

僕は西洋人或いは大陸の人間が哲学的になったのは、ひとえに自己中を繰り返しお互いにせめぎあった為だと確信している。

日本では、個人主義が語られる時、未だに、自己中心主義であるとか、利己主義であるとか、否定的に捉える傾向は依然強く、少し前向きに捉えてさえも、個性の尊重だとか、個を貫くだとか、個の領域を拡げるだとか、表面的な現象面ばかり捉え、内面が論じられる事が少ない。

個の領域は個人の内側に限り無く拡がるもので、内側に貫くものであり、いずれの社会に於ても個を外側だけに貫く事は難しい。

個は、自己中心的なものではなく、自己求心的なものなのであり、日本人の様に、自己遠心性の強い国民には向かないのかも知れないが、日本には、自信を持って主観を語れる人間の数は未だ少なく、逆に、自己中心の人間の方がもてはやされるという、奇妙な現象さえ見られる。

つまり、個人主義とは自己中心主義ではなく、自己求心主義なのであり、日本の様に自己遠心的な社会では中々理解出来ない事は確かであるが、個々人が内面の限り無い拡がりに気付き、自分というものを相対化し普遍的な個人を括り出す事が、個人主義を社会に反映させる為には必須なのだ。

付録:造語について、

僕は思考の過程に於いて既存の言葉ではなかなか表現出来ない時には造語してでも表現を試みることにしている。

自己中心について考える時は、必ず自己遠心、自己求心について考えるようなものだ。

オーストラリアに来てみて、やはり日本人は近代文明をもう一度考えてみるべきであると思いついた時に作ったのが、近代文明学総論、各論であり、近代文明学に於ける日本の立場を考えた時、輸入の学問では解決出来ない部分は、、自分学であり、個人学であると言った類だ。
柳田國男が「神道はキリスト教が欧州を席巻する前の全世界の宗教」と言うように、神道は原始的なシャーマニズムなのである。

この二点を踏まえてもう一度考えても損は無い。

個人学講義3

瞑想とは
テーマ:近代文明学総論
「神が居ないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神が居ないのである。」

今日は瞑想の話でもしよう、

僕は今まで神様を見た人と会った事がない、つまり誰も神なんか見た事なんかありはしないって事、神の存在を感じる事はあるけどね、見た事は無い。

神つまり創造主の存在を否定しちまうと自分の存在の否定に繋がるので、創造主ってのが人間には必要だって事。

古今東西昔の人は一所懸命神の存在証明をしようとしたもんだ、元を正せば皆人間が考えた事なんだな、神の概念も、宗教も。

つまりその中心にあるのが哲学だ、自分で考える事に他ならない。

僕が全て論理に始まり論理に終わると言うのもここにある。

僕は自分の内側に絶対的なものを見出せって言う、僕が良く言う「内なる神を見出す」って奴、ってのは外側には神も居なければ、絶対的なものも無いって事。

自分の内側を覗くのはどうしたら良いのだろう、つまり内省だな、よく、「胸に手を当てて考えてみろ」なんて言うけど、それに近いよね。

ここからがスピリチュアルの領域なんだな、誰彼とこれをやる必要は今までなかった、つまり科学が発達してない時は信じるって部分の比率が高かったからなんだよね。
つまり指導者(グル)さえしっかりしてれば只付いて行けば良かったって事、でもこれだけ信教の自由、個人の自由が叫ばれると人間を宗教でしばるのが難しくなった、だから自分でその作業をしなければならないって事だね。
キリストも麻原彰晃も所謂グルって奴だね、こないだ亡くなったサイババ、もラジーニも、結局グルがしっかりしてないと、オームみたいな結末になる、つまり、人間が神そのものになってしまうと、現人神の国家神道で第二次世界大戦みたいな失敗するし、最近の話だとアメリカのブッシュが自由の要らないイスラム圏に自由を押し付ける為の戦争をしたみたいなものだな。

よくスピリチュアルな本では自己に沈潜して瞑想すると書いてあるけど、瞑想の目的は思惟の奥深く入りストレッサーを取り除く事にあるらしい、人間の脳は言葉を必ず意味付けする性質があるので、サンスクリットの意味の無いマントラを繰り返し唱えると、それを意味付けしようと思考の奥深くに入り込めるそうである。
つまり瞑想の目的は自分の内面に広がる個の領域を探る事なんだよね、
僕は瞑想の仕方はマハリシ研究所と言う、マハリシ・マッヘーシュ・ヨギと言うグルが教祖の宗教団体で学んだ。
朝晩20分間の励行が良いらしい、それ以上長くやると現実に戻れなくなる可能性があるので、指導者の下でやるのが良いらしい、それを専門用語でプロテクトと言うらしい。
自分にとって自分ってのは絶対なんだよね、自分の存在は否定したくても出来ない、でも他人にとっては相対なんだなこれが、ここが難しいポイントだよね。
だから瞑想って言うのは自分の中の絶対を探る旅みたいなものなんだよ

個人学講義4

自分を客観視する

自分の概念が出来たのは15世紀にベネチアで精巧な鏡が出来た時だと言われているが、日本では魂が抜かれると言う理由で鏡に覆いをする習慣があったので、自分を見つめる習慣が出来なかったと言う説もあるが定かではない。

それはさておき、自分を客観視するとはどういう事なのか、

再び福田さんに登場して貰おう、

福田さんが首相をお辞めになった時、「僕は自分を客観視する事が出きるのです」、「あなたとは違うのです」と記者クラブで記者に言った事が記憶に新しい。

僕はその時以来彼は客観を客観視しているのであって、自分を客観視しているわけじゃないと事ある毎に言って来た。

彼が客観視しなくてはならないのは、主観であって客観ではない、客観を客観視する事なら誰にだって出きる。
つまり、彼が客観視しなくてはいけないのは、次に言った「あなたとは違うのです」と発言した事なのだ。

これはまさに彼の主観であって失礼きわまりない発言なのだ、じゃぁ彼はその記者と何処が違うのかそれを限りなく客観視所謂、相対化して行くのが自分を客観視するって事なんだよね。

人間は傷つき易い動物なので、真実を知るより慰めが欲しいって時が多いのも事実だけど、傷つきたくない為に自分を偽って生きると、それが心の奥深く潜在化してトラウマになってしまうから、事実を直視する習慣ってのは必須なんだ。

つまり、誰だって自分の置かれてる立場、自分の悩みを解決するのが優先だってのは当然だよね、でも待てよ、ひょっとして今自分が悩んでいるのは、何も自分に限った事じゃないのかも知れないと思うと、問題は段々、普遍性を増してくるわけだ、言い換えれば固有の問題を普遍的な問題に迄昇華する事が普遍性の追求姿勢って言うものなんだ。

そうして行く内に、自分の自由と個人の自由は違うものなのだと判って来るんだな。

CPUとOSの相性の悪さ

皆近代的自我は一体一で神と対峙している個が前提だとかややこしく説明するけど、結局神の概念だって人間が作ってるわけでしょ、まぁ、自分が無ければ始まらないから言っても無駄かもしれないけど、自分が無いって事は考えてみようとも思わないって事なんだよね、つまり、自分の論理を判らない所には仮説を立ててでも回してみるって、ロジックを回してみるって事なんだよね、僕も最初のころ8ビットのpcでBASICと言う言語を使って、go subだとか色々なコマンドを使ってた時を思い出すけど、皆コンピューターのプログラムだと一生懸命バグを取って走らせてみて、シンタックスエラーとか不当なオペランドなんてのと戦いながら、それの繰り返しを夜も寝ないでやるくせに、哲学的な事だとからきしなんだよね、つまり、それと同じにこの近代文明の基本的な哲学だってもっとロジカルに括り出してるんだと思うんだよね。

「コンピューターは人間の脳を模して作られたと言われているが、僕はこのコンピューターからロジックを学んだ口である、16ビットのpcが世に出た頃僕は百貨店の商事部にいて大手企業の景品の受注などをしていた。
その頃出たマイティーベースというメニュー式のデータベースソフトは実に使い易く、受注した内容をインプットするとそれを業者別にソートし直し、原価から売価に至るまで全て計算して、発注票をプリントアウトすれば後は業者にそれをファックスするだけという実に便利なものだった。
僕はその時初めておおこれがロジックと言うものだと学んだのだ、つまり括り出す事、科学の基本である要素還元主義である。
当時はパソコンなど未だ会社が買って呉れるわけでもなく、仕事を自宅に持ち帰ってインプットするわけなのだが、凄く時間が掛かるし、又それをプリントアウトするのも時間がかかる、僕はいつもあのシリアルプリンターがチイチチーと音を立ててプリントアウトする間風呂に入る事にしていた。
その後会社を止めてからウィンドウズも進化し続け、それと並行してマックも台頭し、僕がパワーマック9500を買った頃はマック教徒はマックを妄信していた。
その頃マック教徒を見ているとカチャカチャカチャカチャとキーボードを叩く速度はやけに速いのだが仕事が遅いのだ、僕はその時思ったのだが、僕みたいなpc叩き上げだと勘が働いて大体何処が悪いのか判るのだ。
僕は今でも信じているのだが、マックが出来てからと言おうかマウスが出来てからと言おうかあのGUI(グラフィカルユーザーインターフェイス)をクリックするだけで何でも出来てしまう利便性が人間の脳を退化させていると言う事である。」

こんな感じかな、

先日スティッカムの配信で友達と話していて、pcのトラブルを解決すると、何故か凄く充実した気持ちがするんだよねなんて話していて、僕のこの「日本人に自分が無い理由の謎解き」だってそれと同じなんだよななんて思った、つまり解けないと実に歯がゆいのだ。
これが和魂洋才はCPUとOSの相性の悪さであって、インテルインサイドなんて言って喜んでる場合じゃないと言う根拠なのだ。

個人学講義5

個は全を包含する

又振り出しに戻った、
今回は良い意味での振り出しである。

20年位前未だイタリアルネサンスを研究してた頃「個は全を包含する」とよく言っていた、確かニコラス・クザーヌスか誰かの言葉だと思ったが、翻訳だから元の言葉がなんだかも
判らない、受け売り、聞きかじりである。
10年位前に全÷論=個みたいに個の概念は括り出されていると仮説を立てていたのだが、ここに来て何か判ったような気がした、ユーレカである。

結局認識の主体は自分以外ないのだから、自分こそ絶対であり、全なのである。
これが僕が自分の中に絶対的なものを見出せ、「内なる神を見出せ」と口を酸っぱくして言い続ける根拠なのである。

つまり全=自分なのであり、そこで自分÷論=個が括り出せる。
所謂自分を限りなく相対化して個=1の概念を括り出す事なのである。

夕べ寝がけに女房に何か判った気がする、でも悟ると寿命が縮まるので悟りたくないと言っていた。

僕は以前から人間が長生きするのは悟るのが遅いからであり、寿命の短い動物程悟りが早いと言っていた事がある。

自伝にも「犬にも負ける」というタイトルで書いた事もある。
【犬にも負ける】

如何に聖俗未分離の状況から脱するか?
テーマ:近代文明学総論
今回の東日本大震災及びそれに伴う原発事故で、和魂洋才の弊害と僕がよんでいる日本の特異体質が象徴的に表れ、この最大の特徴である聖俗未分離状態で近代文明を享受し対応して行く事の限界に達してしまった事が判りました。

日本はこの聖俗未分離の状態からいち早く脱却しなくてはいけません、西欧社会では既に爛熟期を迎え、リベラリズムと正義の限界なんかが議論されるようになり、日本がプレモダンから脱却しない内にポストモダンの世の中に移行しつつあります。

僕は以前から東のナチュラリズムと西のヒューマニズムとのハーモニズムというものを考えていて、ホーリズムから直接ハーモニズムに簡単に移行できるわけではないものの、日本の聖俗未分離が一度分かれた心と身体の心身一如状態に近い事が幸いするのではないかと思っています。

日本では海外の武道が取りざたされていますが、これはまさに心身の鍛錬と心と身体の心身一如だからに他なりません。

つまり、日本では、古式の武道も、現代風のボディービルディング、サーキットトレーニング、アイソメトリックコントラクション、ヨーガ、瞑想、と別々に分化されてしまい、心の鍛錬がおろそかになってしまいました。

つまり、以前よく言われた、臍下丹田に力を入れる、けつの穴を引き締めると言う事がおろそかになってしまったのです。

僕は自分がその気になれば腹式呼吸はカラオケからでも体得出来ると思っていますが、この散り散りになったものを一つに持って来る事こそ心身一如なのです。

ですので、ホーリズム(全体主義・聖俗未分離)の日本が東のナチュラリズムと西のヒューマニズムのハーモニズムに合流する為にはモダンの特徴である二元論を学び、普遍性追求姿勢及び全能性追求姿勢が、一神論を生み、科学を生むという、近代文明の仕組みを学ぶ必要があります。

自己求心中心では現在この聖俗未分離から脱する方法を判り易く解説出来るように日夜奮闘しておりますので今しばらくお待ち下さい。

何故日本は聖俗未分離の状態から脱却出来ないか?
テーマ:近代文明学総論
日本には科学の発生する土壌が無い。------->論理的でない。科学も宗教化する。科学者も科学的じゃない。

何故か

日本には普遍性追求姿勢も全能性追及姿勢も無い(聖俗未分離)からである。-------->科学が発生しない。

何故か

哲学が無いからである。------> 自分を限りなく相対化して個=1を括り出すのが哲学の基本である。

何故か

日本人には自分が無いからである。------->外国に対する恐れ、ペリーショックのトラウマとも言われる。

何故か

日本人が大人じゃないからである。------>日本人は自分と向かい合う習慣がないのでいつまで経っても大人    
                            になれない

何故か

日本には「甘えの構造」があるからである。---> 神道の天皇の赤子と言う、世間に護られて生活して来たから   
                               である。

これ等の逆を行く事が、日本が先進諸国の仲間入りを果たせる只一つの道なのである。

個人学講義6

聖俗未分離の定義

最近聖俗未分離と言う言葉の使用頻度が異常に高くなったので、ここで定義付けをしておいた方が良いのだろう。

手許に思想の科学とかの辞典が無いので、鶴見俊介先生はどうお思いになっていたのかは定かではないが、

僕は下記の意味で使用しています。

聖俗未分離=全と無の両極端のみが選択肢の状態。

症状としては、全と無の間を行ったり来たりする、オールオアナン、一か八か、当たるも八卦、当たらぬも八卦の状態である。

別名:ホーリズム、全体主義
然しながら、聖俗未分離状態がプレモダン、聖俗分離がモダンだとすると、単なる主義主張、イズムの違いではない事が判るので、所謂全体主義と個人主義の二分法では解けない。(この項、6月25日に補足)
聖俗分離=全と無の状態と対比して、個=1を括り出した状態を言う。

以前も書いたが、15世紀にベネチアで精巧な鏡が出来てから、個の概念が生まれたらしい。
僕が思うに、イタリアルネサンスで、キリスト教を科学したのが大きな力になっているのだ。

補足させて頂きますが、僕は今まで、民俗学辞典と思想の科学の用語集程役に立たなかった買い物は無いと思っています。

個人学講義7

覚醒への道

最近は普遍性追及姿勢ばかり考えていたので、対極に位置する全能性の追求についての考察がおろそかになってしまった。

前に「個は全を包含する」と書いた事があったが、その通りではあるが、それでは全と無から個=1を括り出したように、全=自分であり、自分こそ神なのであると短絡的には言えない。

つまり、普遍性の追求も自分を相対化する事により、全能性の追及も自分を相対化する事により到達出来るのである。

以前サイバーシャーマンと言うサイトでこんな事を書いたのを発見したのでご紹介しよう。

「学問の目的は真理の探究に在り、始原の追求に繋がる覚醒への道、悟りへの道という思考の延長線上に在る。
個の確立とは人間の存在そのもの(レゾン・デ・エトル)を確認する営みであり、覚醒への道の入り口である。
覚醒への道は思考の一段階としての内省により個に沈潜する事で開かれる。
個は全に繋がる唯一の窓であり、個がマクロ・コスモス(全)と繋がって初めて個が確立されたと言える。
個の外側を通って全に到達する事は出来ず、個の内側を通ってのみ全に到達する事が出来る。
神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。
覚醒するには、個人が眼を内側に向ける訓練を怠らず、常に自己を客観視(subject-object)する必要がある。近道もせず、寄り道もせず只一途に真理を探究する姿勢、そこには何の短絡もあってはならない。
学問は悟りへの道の一段階に過ぎない。細分化された学問により人間は覚醒への道を塞がれてしまっている。細切れの学問では複雑な人間を解き明かす事は出来ず、一度細分化された要素を再構築出来る能力が常に要求される。
マクロ・コスモスと断絶したままの学問は実に虚しいものである」

こんな感じである。

未だ日本に居た頃の日記にもこんなのがあった、

「May 19, '99
学問の目的である真理の探究は、始原の追求に至る覚醒への道、悟りへの道という思考の延長線上に在る。日本の特異体質は実証主義にこだわるあまり、この実証出来ない両端の部分を切り離してしまった処に原因がある。全能性の追求と普遍性の追求、個と全、悟りへの道と覚醒への道も結局同じ物なのである。哲学と科学、宗教と哲学、宗教と科学の相互の関係を切り離したまま進むのは非常に危険である。これが柳田國男のいみじくも言った「綜合無き学術」のもたらした「分業の弊」である。」

ポストモダンの中でもこんなふうに書いていた、

「筆者も正直なところ、日本人の個が確立されていないのは、一対一で神と対峙する或いは超越的なものと向かい合う姿勢の欠如にありと短絡的に考える傾向にあった。しかし最近、個が確立すれば自然に人の心に超越した概念が生まれて来ると確信するに至ったのである。少なくとも、鶏が先か卵が先か議論を続けていても解決の緒が見付かるわけでもない。「個人学」はその超越的な認識を得る為にも必須なのである。信じているものが、神道でも儒教でも二十一世紀を生き抜く為には個の確立無しには済まない。神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。先に、経済的個人主義或いは共和主義的個人主義という言葉で日本人を計るのは疑問であると述べた様に、こと「人格の尊厳」というものが関わって来るとどうしても超越的存在との関わりというものに行き着いてしまうのである。」
矢張りなんと言ってもこの二つに凝縮される。

「個の外側を通って全に到達する事は出来ず、個の内側を通ってのみ全に到達する事が出来る。」
「神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。」

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