パラダイムシフト

聖俗未分離

科学の宗教化

今回の東日本大震災及びそれに伴う福島原発事故で日本の特異体質である、個と論の欠如を再確認するに至った。

又、戦後、天皇の人間宣言で拠り所を失った、軍国少年が科学少年に変わり、科学が宗教そのものになって行った事に気がついた。

今まで聖俗未分離の日本等と表現していたが、実際今回程それについて考えた事は無かった。

デカルトの方法序説にしろ、二元論、ボンサンスにしろ所詮神の居ない日本には適用出来ないと考えていた。

最近は日本がこの聖俗未分離の状態から脱却するのは個々の人間が個の確立を図り、内なる神を見出す以外に無いと思い込んでいたきらいがあった。

それについては今も変わっている訳では無いが、日本に於ける科学の位置づけがここ迄曖昧なものだと言う認識が薄かったのである。

今までも科学も一種の宗教のようなものだと考える事はあったが、それが聖俗未分離から派生しているという認識が薄く、これが日本人の個の確立を阻んでいる原因と同じであると、不覚にも結び付けられなかったのである。 少なくとももう少し科学的だと信じ込んでいたのである。

結局[仮説]で述べたような、全能性の追求、普遍性の追及、或いは科学とそれと対極の位置にある神学或いは宗教との関係を正確に把握していなかったとも言える。

自分が無ければ始まらない

日本には全能性追求の姿勢も無ければ普遍性追及の姿勢も無い、それは明らかに中心に位置する哲学の欠如に起因しているのである。

つまり、日本には哲学の基本である、個と論が欠如するのである。

筆者は輸入の学問では日本人の心は解けないと常に言い続けてきた、言わば和魂洋才の弊害、ひいては日本の特異体質なのであるが、自分を見つめて、自分で考える事から始まる西洋の哲学で、自分が無く、輸入の学問に依存する、即ち、海外の文献を漁る事に終始する日本人の心は解けないのである。

普段何気なく使っている言葉、例えば、主観と客観、絶対と相対、知性と感性の類が聖俗未分離の元では分離されていない事に気が付かなかった。 これで科学的だと言う事自体誤りであり、科学的になり様が無いのである

結局振り出しに戻ってしまったが、自分が無ければ始まらないって事なのである。


自己矛盾(平成23年5月1日のブログより)

今回僕を完膚なきまで打ちのめしたのは、科学的な手法が聖俗未分離の社会では一切通用しない事を理解したからである。

僕がよく自分は科学一辺倒の時代に育ったと言うが、科学が宗教化していたなんて判り様も無い。 もっと日本人は科学的なのかと思っていたのだ、考えて見れば他の部分が正しく機能していないのに科学の部分だけが正しく機能するのなんか期待出来ない事に気がつかなかっただけである。

例えば、主観的、客観的、絶対的、相対的の類の言葉が意味を成さないと言う事なのである、何故ならば、これ等は全能性及び普遍性追求姿勢を前提に機能する言葉だからである。

日本には全能性追求の姿勢も無ければ普遍性追及の姿勢も無い、それは明らかに中心に位置する哲学の欠如に起因しているのである。

つまり、日本には哲学の基本である、個と論が欠如するのである。

「『近代日本』というのはヨーロッパ人にとって、それ自体生きた矛盾である。」と曾てカール・レヴィットが言ったのが、今回の一件でようやく彼が何を言わんとしていたのか理解出来た感じがした、聖俗未分離の状態で科学的と言うのは自己矛盾なのである。

輸入の学問では日本人の心は理解出来ない、翻訳文化の弊害と言いつつ、輸入の学問の手法しかとれない自分にもどかしさを覚える。

片方で論も個も無いと言いながら、論理が通用すると期待してしまう、これ程のジレンマがあるだろうか、つまり日本語で話していながら外国語で話しているのと一緒なのである。

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