未開の証明

結局日本はとんでもない似非近代国家だったという訳です。
悪い冗談だったと思って諦めましょう。
日本は西欧自由主義国家とは全く違う尺度で動いているのです。
そうです、情緒です、エートスでもなく、ロゴスでなくパトスです。
日本人の善悪は快不快、好き嫌いであると言う所以です。
何せ近代文明とは似て非なる物詰まり似非なのですから。
それよりも何も、最悪な事は、
日本が近代国家を目指している訳じゃないという事です。
もう日本人に真面目に近代文明、科学、普遍主義を説く方が馬鹿です。

結論は出ている、日本人に残された手段は、憲法前文に謳われている「人類普遍の原理」を学ぶ以外にない。

何故無理なのか、それは日本人の普遍性追求姿勢の欠如にある、詰まり相対化不足である、従って自分では考え付かないのだ。

日本人は自由よりも寧ろ秩序を好む点でイスラム社会と似ている。
聖俗一致で普遍主義を拒絶するイスラム、聖俗未分離で普遍主義を拒絶する日本。

西欧=キリスト教と短絡して普遍主義を拒絶する。

その為、近代化の際、アンチテーゼ(マルキシズム)から導入して、テーゼである普遍主義を学ぶ機会を逸したのである。
これこそがまさに聖徳太子以来の御都合主義、良いとこどりならぬ、都合の良いとこどりである。

憲法の前文に「人類普遍の原理に基く」と謳っているにも関わらず、リベウヨの概念がない、異常である、日本人はそれに気付きもしない。

聖俗未分離、正教未分離の極致、宗教犯と政治犯が分離していない確信犯集団、日本会議カルトに政府を牛耳られていてもそれが未開の象徴とすら気付かない日本人、異常である。

日本人は全てという全てが間違っている、全てが似非なのだ。
未開状態を遅れと認めず違いで処理しているだけである。

結局日本人は毎日言葉のお遊びをしているだけに過ぎない。
それもその筈、日本語は元々歌を詠む為にあるのだ。
一億総ポエマーの日本人。

         2021年2月22日に記す、ノ田芳秋

今回ヘーゲルの考え方がネオプラトニズムに基いていると知り、
ヘーゲルも只自然の摂理を追求していたに過ぎないと判った。
こんな大事な事にも日本人は一切興味を示さない。
俺が幾ら日本人には全能性追求姿勢も普遍性追求姿勢も欠如する
と叫んでも誰も関心がない訳だ、
結局日本人は始源の追求も、真理の探究も、自然の摂理も興味がないのだ。
これこそが、論理性の欠如に基く悪循環、
未開だから理解出来ない、理解出来ないから未開のままの悪循環に他ならない。

今までは個の確立こそが文明化への唯一つの手段であるという強い信念から
個の確立を当然の事として考えを進めて来た為
正直言って日本の未開の証明をする羽目になるとは夢にも思わなかった。

未開の証明と言っても取り立てて論じるものもない、
強いて言えば何も無いのが未開の証拠とも言える。
結局イタリアルネサンス以来の近代を語らない限り
紙面を埋める事は出来ないのだ。

今も個の確立無しに文明化の道もあるはずもなく、
普遍主義を学ぶ事は必須である事に変わりはない。
結局この問題は近代文明ひいては科学が
普遍主義で構築されている以上避けて通れるものではない、
それを避けて通ろうとしているのが日本人だと言っても過言ではない。

日本人が現在抱えている問題の大部分は普遍主義由来の問題であり、
思想と生活が関係ないという事をいみじくも表している。
所謂出羽守と言われてる人達が、日本がアメリカじゃない、
イギリスじゃない、カナダじゃない、オーストラリアじゃない
と文句付けてるのと同じなのである。
日本は日本以外のなにものでもない、
未開の中世社会でありガラパゴスに過ぎない。


日本の皆様には是非下の二つの図を比べて頂き、
和魂が如何にいい加減か認識して、和魂洋才の弊害を理解し、
近代文明の構造を理解して頂きたい。

近代文明(普遍主義)とは、
全能性の追求を目的に、普遍性の追求を手段にした、
個(一)から全への思考の循環システムである。




詰まり西欧の尺度で西欧の尺度に逆らっている日本を断罪してるのが今の状況でもって、
要はそれをどうするかなのだ、
結局日本は当然の事とは言え世界基準に合わない、
何故なら日本は聖俗未分離の未開の国なんだから。

てな訳で振り出しに戻るわけだ。
結局柳田國男が括り出した日本人らしさが
悉く近代文明にそぐわなかったという時点で詰んでしまったのだ。

結局明治維新で日本人は輸入の社会システムは教育システムに至るまで建前とし、
本音は世間及び苛めとして残したのだ。
個の確立していない聖俗未分離の日本人が社会と直接接しないで済む
世間システムは所謂ムラ社会と呼ばれ最大の日本の特異体質なのだ。

柳田國男は教義のない神道の所謂バイブル作りを試みたわけで、
その孫の芳秋は日本語取扱説明書の
付いて来なかった近代文明の日本語取説を作りたかったってわけ。

問題は日本の心は輸入の学問では解けないと言いつつ
輸入の手法でしか解説すら出来ないというジレンマをどう解決するかなのだ。
何せ日本人はこういった自己矛盾を看過しても平気な民族なので始末が悪い。

「元々輸入の学問はデカルト以降の社会に対応していて、日本の様な前近代、中世、未開のオカルトの社会には対応していない。」と言い続けて久しいが、
カントが始めてヘーゲルが完成させたと言われているプラトン思想の復興運動がルネサンス期のフリーメイソンの哲学でもあるネオプラトニズムであることからも、西欧の学説は普遍主義を前提としている事は明らかである。
結局西洋の学説は憲法に至るまで建前なのである。
然し乍ら日本の未開が証明されるとこの前提条件である日本の近代性が否定されてしまうのだ。

明治維新で西欧社会が一神論で動いてると知った岩倉具視の一行が現人神をでっち上げて何とか和魂洋才といって、富国強兵、殖産興業と軍国主義で何とか体面を保って来たものの、第二次世界大戦に敗れ、天皇が人間宣言しちまったものだから、その不満分子が日本会議なんてのを立ち上げて根拠のない全能感掲げ日本人無謬論を唱え出したってわけである。 日本人がすることなすことカルト化する、ロバートペラ曰く「日本人はマルキシズムさえも神道化する」何故なら、国家神道=現人神=カルトだからである。

平成4年に考えを小冊子に纏めて名刺がわりに配った『ワンネス』は魂才一致の原則に回帰、
霊に導かれ始めた日本の特異体質の追求も終戦の日の祖父の霊からのメッセージで回帰、
「ポストモダンのエートスを求めて」と始めた普遍性の追求も、
日本にはポストモダンもエートスもない事が判り全て回帰した。

ワンネスは例えば目的と手段、主観と客観、建前と本音等元々二元性のあるものを
一元に持って行こうとする努力が必要だと言う結論に達した小冊子、
結局和魂洋才の弊害である社会と世間の二重構造を括り出し、
最終的に魂才一致の原則を導き出せた。

祖父の柳田國男の所謂第二部は語彙であるとか
フィールドワークの様な所謂民俗学的手法ではなく、
國男の知の技法を習得し日常の社会生活を通して
ピックアップしただけだがかなり満足の行く結果が得られたと思う。

柳田國男の所謂開港後の日本人らしさはそのまま日本の特異体質とも言える。
その中でも最大なものが前述の社会と世間の二重構造である。

筆者が日本の特異体質を研究し始めた時の最初のエッセイのタイトルは
「ポストモダンのエートスを求めて」というものだったが、
先に進む内にモダンが無ければポストモダンが無いと気付き、
日本にはエートスもなくパトスだけだと気が付いたのだ、
遂には日本人はエートスじゃなくてパトスで動いてるって知って愕然として、
こりゃなんとかせんといかんって言うので「個人学」ての捻り出したのである。

これは渡豪して、日本人は近代文明学各論は優等生だが総論は落第生である
なんていい出した頃に始まる。
今では各論も落第生になってしまった、
それは近代文明の仕組みを知らないからである、
総論に瑕疵がある時幾ら各論を弄っても問題は解決しない。
これが俺が30年も費やして近代文明(普遍主義)を図解した理由である。

元々近代文明学そのものが存在しないのだから総論も各論も存在しない。
結局造語しない限り日本の特異体質を解説するのが難しいという事でもある。
個の確立の重要性を考えた時も、自己中、所謂自己中心という言葉一つとっても、
じゃあ自己遠心、自己求心という言葉もあって然るべきだろうという具合にである。
これは自己中こそ自己求心の入り口であり自分の中の絶対主、
所謂内なる神を見出すのに実に役に立った。

個人学も最初の頃は自分学と個人学と呼んでいた。
詰まり自分学は永遠の哲学であり、
個人学は永遠の科学であると言う観点から造語したものである。

30年間で判ったのは日本にはポストモダンもエートスも無いって事だ、
何故なら日本はエートスの代わりにパトスで動いている中世社会だからだ、
詰まり洋魂はエートス、和魂はパトスって事だなのだ。

天皇制と一神論が競合すると言う為に明治維新、
第二次大戦と二度に亘り文明化のチャンスを逃し、
東北大震災及び今回の様に
日本会議カルトに政府を牛耳られるに至っても
何も学べないのは何故だろう。

東北大震災では
日本には科学の生まれる土壌がない事をいみじくも証明し、
日本会議カルトが政府を牛耳るに至っては、
日本が聖俗未分離の前近代、中世社会である事を
奇しくも証明してしまった。

矢張り決定的なのは日本人の特異体質が凝縮された日本会議の存在である。
日本会議が証明してくれたというよりも、
たまたま括り出した日本人の特異体質が日本会議の特徴と完全に一致した事だ、
日本会議そのままだと言っても過言ではない、
疑念から確信に変わった瞬間でもある。

詰まり聖俗未分離、政教未分離の極致、
宗教犯と政治犯が分離してない確信犯集団、
日本会議カルトに政府が乗っ取られたという事です。
これだけでも日本が未開であると証明されたみたいなものです、
何故日本人は文明化を放棄したのだろうか。

下のリンクは最近ツイッターで俺の周りで起こった実際の話である、
二人の日本人が図らずも日本人の無知を臆面もなく曝け出してしまったのだ、
結局二人ともイタリアルネサンスの知識がなく、
ヘーゲルもマルクスもフリーメイソンだったと知らず、
俺の主張する普遍主義をありもしないドイツの観念論と決めつけて、
執拗に粘着し罵倒し続けたのである。

大体普遍主義がありもしないなら、憲法前文に謳われている人類普遍の原理に基付くという文言は単に一般的な意味で使われているとでも言う積もりか?

この二人を見れば何故日本が文明化出来ないのかが一目瞭然です。

それでは最後まで存分にお楽しみ下さい。

【総括】
【先ずは文明化する事だよ!】
【未開を認めたら死ぬ病】
【対話とは何だよ!】
【虚しくならないのかね!】
【いい加減にせんか!】
【集団ヒステリア】
【隠蔽工作に必死】
【最後の返事】

【未開の象徴】
【未開のイデオロギー】
【日本人はこの程度】
【日本人にとって新憲法が最大な不幸だった】
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