再生塾

二代目柳田國男が解き明かす近代文明学総論

何故今日本にはルネサンスが必要なのか?

宗教学者に言わせると、「日本は国家形成が早かった為に統一規範としての宗教が必要でなかった為に、聖俗未分離のままこれまで来てしまった。」という事である

仮説

次の図式は私が「世界は個から全、全から個への循環の内に在る」と位置付けるものです。

これが私が地球の西と東、北と南で人間の営みに大きな違いは無く、たまたま循環のサイクルがずれているに過ぎないと考える論拠です。

西の世界が収斂に向っている時、東の世界は拡散に向っている、或いは逆かも知れないと言う事です。

これが日本にとってみればイタリアルネサンスに迄遡る500年の遅れなのか、鎖国時代迄の300年なのかは不明ですが、遅れと言わない迄もずれている事は確かな様です。

日本の聖俗未分離の社会は聖俗一致で近代文明を拒絶するイスラムの社会に似ています、それは自由よりもむしろ秩序を好むと言う点です。
聖俗未分離で近代化のみを求め文明化を拒絶する日本、聖俗分離で近代文明即普遍主義を導き出した西欧、聖俗一致で近代文明を拒絶するイスラム、この隔たりには人為とは思えない次元の違う運命的なものを感じざるを得ません。

然し乍ら個人個人の波長と歩調が時として、大きな波と小さな波が交差する事があるように、西と東、北と南の波長或いは歩調がシンクロナイズして、調和する事も有り得ない訳ではありません。

次の表はポストモダンがヒューマニズムとナチュラリズムのハーモニズムになると仮定して、私が纏めたものです。

幸か不幸か日本は聖俗未分離のままモダンを迎え(これが真の意味でのモダンと呼べるか否かは別にして)やがてポストモダンの世の中を迎えようとしています。

この表を見て頂けばお判りになると思いますが、日本は丁度東と西の中間に位置し、そのままハ−モニズムに移行するのに一番都合の良い場所に位置しているのです。

今日本に何が必要なのかと言うと、スクラップアンドビルドなのです、つまりホ−リズムから一度脱却してハーモニズムにシフトするパラダイム・シフトなのです。

聖俗未分離とは何か?

15世紀にベネチアで精巧な鏡が出来て以来、個の概念が生まれたと言われている、これが所謂イタリアルネサンスである、つまり彼等はキリスト教を科学したのである、これを聖俗分離と呼ぶ。

17世紀にデカルトが『方法序説』を著し二元論を説いて以来ヨーロッパで科学が発達したのであり、以来西洋の学説は聖俗が分離した状態の社会に適用出来るようになっている。

従って聖俗未分離の日本には本来適用出来ないのだが、明治維新以来和魂洋才の名の下に洋才(各論)つまり技術的な側面だけを取り入れ現在に至る訳であり、これを筆者は輸入の学問の弊害、ひいては翻訳文化の弊害と言っている。

科学は本来全能性追求姿勢から生じ、それが普遍性姿勢の追求姿勢を生むのであるが、日本には残念ながら中心に存在する哲学(洋魂)を輸入しなかった為に両者が欠如し、従って日本には科学の発生する土壌は無い。

つまり、科学の目的は全能性の追求であり、科学の手段は普遍性の追求であると言え、普遍性の追求とは科学の基本である、要素還元主義の事であり、共通項で括ると言う事である。

最近になって日本人は近代文明を近代化と文明化と分けて考えているのではないのかと思うに至った、日本は近代化は遂げたが、文明化は拒絶しているそれは和魂=文明、洋才=近代だからであると考えるとしっくり行くのである、然しながら日本が憲法の前文で人類普遍の原理と謳っている以上、辻褄が合わなくなるのは避けられない、何故ならば自由平等博愛の精神は全て普遍主義から生じているからなのである、文明化を拒絶して近代化だけを望みそのうえ基本的人権を期待するのは自己矛盾なのである、隣国中国を見れば納得が行くだろう。

何故日本には哲学が生まれなかったのか?

これはひとえに日本人に自分そのものが欠如するからである。

原因は色々考えられるが、ベネチアで精巧な鏡が作られるようになって個の概念が生まれたと言われるのと裏腹に日本は鏡は魂を奪うと言う事で鏡に覆いをする習慣にも端的に表れている。

自分が無ければ始まらない。

筆者がよく「西洋人は生まれてすぐに大人になり、日本人は死んでから大人になる」と言うが、西洋では生まれてすぐに自分と向かい合う事を要求されるが、日本ではそれが無い、この自分と向かい合う事そのものが哲学の始まりでもある。

八百万の神

ツイッターであるグループが八百万の神についてああでもない、こうでもないと議論していたが、柳田國男が「神道はキリスト教が欧州を席巻する以前の全世界の宗教」だと言ったように、八百万の神はギリシャ神話の時代も何も変わらないのである。

つまり、日本で議論していると必ずと言って良いほど、最後には一神論対汎神論に行き着いて決裂するのが落ちであるが、そもそも、八百万の神と科学された一神論を同じ次元で捉える事自体が間違っており、両者は全く別個のものであり、似て非なるものなのである。

イタリアルネサンスはギリシャ哲学とキリスト教のシンクレティズムであり、後にフリーメイソンに引き継がれるネオプラトニズムの唱える神とはキリスト教の神では無く、一神論における絶対主である。

個の確立とは?

個の確立とは自分を限りなく相対化(客観視)して個=1を括り出す事であり、これこそ哲学なのである。全と無の間を行ったり来たりする聖俗未分離とは個=1の確立されていない状態を言う。

聖俗未分離の状態を巷では、ホーリズム或いは全体主義と呼んだりするがこれはイズム、所謂主義主張の問題ではないので誤解を招き易い。

公私混同ならぬ個私混同

日本人は個私混同している人間が多い。

個の対にあるのは全であり、私の対にあるのは公である、公私混同ならぬ個私混同である。

個は英語のindividualの訳であり、individual=indivisible=分ける事が出来ない、分業をdivision of lavourと言う様に、つまり分業が出来ないと言う意味であり、分業が出来ないから自分でやるしかないと言う事である。

日本ではtake care of yourselfと言うのを、気をつけてと訳してしまうので、判りにくいが、これは自分で自分の面倒を看なさいと言う事である。

英語圏では分業出来ない、分業出来ないと毎日マントラの様に唱え、自分の事は自分でしろと年がら年中言い合っているからこそ、皆個が確立されているとも言える。

筆者が、「私権の行使と個人の自由を同次元で捉えている限り、個人の自由は理解出来ない」、と言うのもここにある。

筆者はよく、「自分の自由と個人の自由は違う」と言うが、自分を限りなく客観視(相対化)して括り出された普遍的な概念が個だからである。」

自分を客観視する

それはさておき、自分を客観視するとはどういう事なのか、

福田さんが首相をお辞めになった時、「僕は自分を客観視する事が出きるのです」、「あなたとは違うのです」と記者クラブで記者に言った事が記憶に新しい。

僕はその時以来彼は客観を客観視しているのであって、自分を客観視しているわけじゃないと事ある毎に言って来た。

彼が客観視しなくてはならないのは、主観であって客観ではない、客観を客観視する事なら誰にだって出きる。

つまり、彼が客観視しなくてはいけないのは、次に言った「あなたとは違うのです」と発言した事なのだ。

これはまさに彼の主観であって失礼きわまりない発言なのだ、じゃぁ彼はその記者と何処が違うのかそれを限りなく客観視所謂、相対化して行くのが自分を客観視するって事である。

自己責任とは

海外では"proceed at your own risk"と言う看板を良くみるが、この自己責任に対する考え方が日本と海外では大分違うのである。

つまり海外では個人の自由は社会との契約ではなく、神様との契約だからである。

筆者がよく私権の行使と個人の自由を同次元で捉えている限り、個人の自由は理解出来ないと言う理由もここにある。

毎回引き合いに出して福田元総理には申し訳ないのだが、彼が官房長官の時、イラクで人質になって斬首された香田君の件を自己責任だと突き放した事があるが、個人の自由は政府とのお約束事ではなく神様とのお約束事であり、政府の要人が海外で人質になった同朋を自己責任だと言って救出の努力しないのはお門違いもいいとこなのである。

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