文明化=相対化=哲学

魂才一致の原則

2017年7月29日 (土)

人生に色合いを

今回これだけ色々25年に亘り日本の特異体質、近代文明の淵源、普遍主義について書き捲り地べたをのたうち回り人生を捏ね繰り回し家族と縁を切ってまで国籍離脱をしハワイで一息ついていた俺のすっかりストレスが取れたというFB上の発言にストレスなんかあったの(笑)と揶揄した大学の同級生がいたので下記のようにFB上で抗議文を載せたら友録を外されてしまった。

「今回高校時代の文集の投稿をお断りしたし購入もお断りした、俺はこの25年間そこいら中に書きまくって50までは自伝も書いている、アマゾンからも3冊電子出版だが出した、人間悩みがあるから書きまくる、それを今回みたいに一言「ストレスなんてあったの(笑)」と言われてしまうのが日本人だと思っている、結局他人の事なんか一切興味がないで自分の事だけ、相対世界にどっぷり、結局日本人の友達なんてその程度だと思う、他人との比較でしか自分を測る事の出来ない日本人は不幸だと思っている、何故俺が日本人をやめたか、思想的な事もあれば家族の事もあれば病気の事もある、俺はFB始めてから理由も告げられず3人の同級生に去られているそんな時に只綺麗事で学校時代の思い出なんて書けると思うかい、そんな日本人が嫌だから国籍離脱したんだぜこちとら。 大体血液ガンで抗がん剤治療で延命してストレスが無いわきゃ無いだろうが、柳田國男の孫として生まれてサイコパスのお袋に育てられて変にならなかっただけでも幸せだと思っている、これでストレスが無いだとふざけるなって感じだ。」

ツイッターで下記のように呟いたが、

"又FBの友録から一人去った、友人を失うのはいつも同じパターン、自分と違う他人の存在が許せない日本人、これも俺の宿命だと思っている、他人には干渉しないが他人からの干渉は正面から受けて立つ、結局国籍離脱は避けられなかったって事だ、蘇生すると必ず叩かれる日本は死んだ振りをするしかない。" 以前日本の特異体質の研究していた当時の阿部謹也先生の下記の言葉を思い出してしまった。

「朝日新聞 平成十年一月十九日付夕刊でも 「伝えるということ」というコラムで以下の様に述べている。

「他者を排除する日本の根」

「中世以前からある恩や義理と結びついた複雑な人間関係がつくる『世間』は、明治以降もしっかり根づいたままだ。その解体なしに日本は変わらない、と考えている。」

「日本の社会、実は世間は、他者を排除する。盛んに国際化といわれているが、私たちが世間という時、そこには世界の人々を含んではいない。日本に暮す外国人も入ってはいない。」

阿部氏は最近の著書「日本社会で生きるということ」 の中でも更に詳しく述べられている。 「ヨーロッパ流の「個人意識」が、日本でもあるかのごとき幻想が、未だにはびこっておるわけですが、実際は、ヨーロッパ流の「個人」というものを、日本で実現するには千年のタイムラグがあり、状況の違いもあります。それよりも、日本の今「世間」のなかにある「個人」というものが、「世間」と「個」との領域を、もう少しうまく設定しながら、「個」の領域を拡げていく。「世間」の解体を、多少もたらすわけですが、「個」の領域を広げていく必要があるだろう、と思うんですね。そうしませんと、いろんな面でこれからの国際社会ではやっていけない。」」

日本人が未開なのは今回の国会のゴタゴタを見れば明らかであり、にも関わらず日本人は日本の特異体質を表層に出ている現象だけ論って原因を追究して直そうともしない、結局原因は普遍主義を拒絶しているからに他ならない。

人類普遍の原理を拒絶し、自然の摂理を無視する傲慢さ、これこそが日本が詰んでいると言う所以であり、ツイッターがエンドレスになる所以でもある。 日本人が何故此処まで頑なに普遍主義を拒絶するのか考えて見たが、それは日本人にとって普遍主義がメタフィジカ(形而上)の世界だからではないかと思った。 結局日本人は自分と向き合わないし、自分を見つめる事がないから哲学の生れようがなく、常に相対世界で生きるしかないのだ、詰まり日本人は相対世界にどっぷりなのである。

大体日本では思想と生活が全く関係ない、何故なら思想が外来だからであるとは加藤周一氏の言葉であるが、 日本人は輸入のシステムを教育システムに至るまで建前とし世間、苛めを本音として残してしまった。 客観の客観視なら猿にでも出来るというように、輸入の考え方は主観になりにくい客観なのである、詰まり建前というものは主観になりにくい客観の事を指すのである。

日本人はこの主観客観という自他の哲学に突き当たると途端に目を背ける、何故なのかそれはこの時点でメタフィジカの世界に入るからである。 日本人が猿のまま死にたくないなら自分を見つめる事である、自分がなければ始まらないのだ、個の確立こそが文明化の入り口なのである、自分を限りなく相対化して個=1を括り出す作業が個の確立である。

2017年8月27日 (日)

相対化不足

日本人を一言で表すと「相対化不足」の一語に尽きる。 相対化し尽くして回帰した後に自由裁量は来る、詰まり趣味嗜好、好き嫌いの判断である。

日本人は好き嫌いの判断を恰も善悪の判断のようにすり替えるきらいがある、詰まり相対化不足の為に主観と客観を混同しているのである、客観の客観視なら猿でも出来ると筆者が繰り返し言う所以でもある。

何故日本人は美意識先行型なのか、それは聖徳太子以来のご都合主義で仏教の結論的無常論を安易に取り入れたからじゃないのか。 詰まり本来相対化し尽くしたその後に到達する自由裁量、即趣味嗜好の世界に入り込もうとするからである。

室町時代の茶の湯の心迄は日本人も哲学的にバランスが取れていたと今迄筆者は勘違いしていたのではないかとも思う、或いはその後のルネサンスがなかったからなのか。

結局趣味嗜好は自由世界でのみ楽しめると言う事である。 政治が安定して初めて趣味嗜好の世界に生きるべきところが、趣味嗜好の世界が先行してしまう不思議。 何故日本での趣味嗜好の世界が虚しいのかそれは現実逃避であるからに他ならない。 遊戯、遊山、三昧の世界に興じる事は侘び寂びしおりとは程遠い。

日本人は相対化不足の為に常に不安定な状態にあるのではないか? とことん追求しないから常に欲求不満の状態にある、相対化し尽くして自分の哲学を持つ事だ。 相対化し尽くした後に到達する自由裁量の世界こそが普遍主義であり、自然の摂理なのではないのか。 たまたま近代文明が西洋文明だった為に不要な葛藤と軋轢を生じたのではないのか。

近代文明が普遍主義に基づきそれが自然の摂理だとしたら只それを学べば良いだけの事であり、徒らに逆らう事は意味がない。

2017年8月 1日 (火)

「理屈じゃない」の世界

RT:「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。未来の子どもたちに綺麗な世界を渡せないって、先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」@harukazechan

「「世の中きれいごとだけじゃない」とかって、得意気に言う事じゃないと思います。」 って言うはるかぜちゃんの言葉良いよね、無垢な若者と汚れた大人の対比がこれ程鮮明に表れたのを今迄見たことがない。 「先に生まれた者として、とても恥ずかしいことじゃないですか。」 先に生まれた者、詰まり先生と名の付く方は考えるべきなのだよ。

昨日も別の件でツイしたが、

"日本人に欠けてるのはズバリこれですね、自分だけ蚊帳の外だから傷付かない、本当の事を言うと貴方も少しは大人になりなさいと言う日本人、大人しいのが大人かよ、世間の掟に逆らうのがいない、村八分がそんなに怖いか、群れから離れたくない日本人。" 大体この癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界を容認しちまう日本人って狂ってるよね。 まあ正直言ってここで評論家気取りのおっさんが建前論に終始するのにも辟易させられるがね。

たまに俺も堪え切れずに内田樹大先生に歯向かったりしてる訳だが。 "日本が癒着談合隠蔽の「理屈じゃない」の世界である事は昔から変わらない、それは日本には倫理規範が欠如するからだ、倫理規範が欠如する時にモラルを説くのが如何に無駄かって事をまず考える事だよ、日本は前近代、中世の未開社会なんだよ。" 以前もツイしたが、

"日本の特異体質の大部分は、全と無の間を行ったり来たりする聖俗未分離の未開性に起因する。 このオールオアナンの二分法を防ぐには個の確立が必須である、全面勝利か玉砕の二分法、美化か自虐の二分法、ネットウヨかリベサヨかの二分法皆同じだ、本音と建前の戦いとも言える、リベサヨが建前で攻めて来ればネットウヨは本音で応戦する。"

詰まり日本人が輸入のシステムを建前とし本音を温存した経緯から見ると、輸入の考え方は所謂綺麗事になる訳で、本音は依然とした「理屈じゃない」の世界なのである。 それは国会の惨状を見れば言うまでも無いが。

2017年8月24日 (木)

人生に色合いを

はじめに言葉ありき、人生はロジックに始まりロジックに終わる。

"暇から考えるという事を考えているけど、やっぱ自分の言葉で言い表わせる位自分の頭考えて同じ言葉を100回位メモした位で全てが繋がって来るんじゃないとあかんよね、結局人間の認識の限界詰まりお互いの認識を認識出来ないという致命的な欠陥を克服するには全て自分で考える必要があるのさ。" と最近ツイしたが、

認識の限界こそあるが、言葉の認識の違いさえ乗り超えられれば繋ぎ合わせる事は可能だ。 情報を蓄積し咀嚼して知識に迄昇華させる、それは情報を数学的に解読する事である。 文章を数学的に解読するそれには単位を統一する必要がある。

全てを自分の言葉詰まり主観という単位に統一してから解読するしかない。

情報を蓄積するとそれぞれ違う要素が共通項で結ばれ自然に繋がって行くのである。 それは縦横のインデックスを一致させる事でもある、俗にニューラルプルーリングと呼ばれているらしい。 自分がセオリーを完結する事が出来たのは最終的に縦横のインデックスが繋がったという事だ。 筆者が常々メモを取ること、同じ言葉を100回メモした頃には皆繋がって来ると言っていたのと同じだろう。

何故結論に至らないのか、それは自身の言葉で表現していないからだ、結局自分で考えない限り収斂して結論に至ることはない。

以下は初期の頃に書いた文章だが、今回相対化をし尽くし回帰してセオリーが完結出来た事で証明されたとも言える。

「学問の目的は真理の探究に在り、始原の追求に繋がる覚醒への道、悟りへの道という思考の延長線上に在る。

個の確立とは人間の存在そのもの(レゾン・デ・エトル)を確認する営みであり、覚醒への道の入り口である。」

「覚醒への道は思考の一段階としての内省により個に沈潜する事で開かれる。 個は全に繋がる唯一の窓であり、個がマクロ・コスモス(全)と繋がって初めて個が確立されたと言える。 」

「個の外側を通って全に到達する事は出来ず、個の内側を通ってのみ全に到達する事が出来る。 神がいないから個が確立出来ないのではなく、個が確立出来ないから神がいないのである。」

「覚醒するには、個人が眼を内側に向ける訓練を怠らず、常に自己を客観視(subject-object)する必要がある。 近道もせず、寄り道もせず只一途に真理を探究する姿勢、そこには何の短絡もあってはならない。」

「学問は悟りへの道の一段階に過ぎない。 細分化された学問により人間は覚醒への道を塞がれてしまっている。 細切れの学問では複雑な人間を解き明かす事は出来ず、一度細分化された要素を再構築出来る能力が常に要求される。」 「マクロ・コスモスと断絶したままの学問は実に虚しいものである。」

筆者はよく自分の自由と個人の自由は違うと言うが、この自分を限りなく相対化したのが個人であり、個人の自由と自分の自由は必ずしも一致するものではない。

詰まり人はそれぞれ皆様々な条件で自由を阻まれているからに他ならない。

この相対化し尽くして後は自由裁量詰まり好き嫌いの世界だけと言うのが趣味嗜好の世界なのである。

遊戯、遊山の境地、市中の山居であり、侘び寂びしおりの茶の湯の心である。

相対化を伴わない趣味嗜好の世界が何故虚しいか判った感じがする、それは現実逃避だからである。

それでは幸運を祈る。

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