自伝(抜粋)

これは僕が50になった時したためた自伝の抜粋である、当時母は80歳で、遠野市を中心に活動していて、その当時主流だった今は亡き明治大学の教授と交流を深めていた。

ところがその教授が自分の意にそぐわなくなったとみえ、一匹狼だった当時70歳の民俗学者に乗り換えようとしていたのだ。

親との確執

通常自伝と言う物は、両親との関係のみならず、兄弟との関係迄も記さなくてはいけない処なのだが、これは私自身の「自分学」であり、兄弟との関係は私にとっては、副次的なものであり、両親との関係を抜きにしては考えられないものであるので、ストーリーの中に度々登場する兄や姉の個人的な性格を論評する積りは私には一切無いので、敢えてそれはしない。 私は基本的に自分より若い人間の行く末は、前の世代の人間の責任の下に考えられるべきであり、成人して独立する迄とか、結婚して独立する迄の慣習的或いは制度的なものではないと信じ、いやしくも自分の世代の責任を若い世代に押し付ける事は断じて避けるべきものと信じるものである。 親より先に子供が生まれる事等有り得ないからである。

思えばあの両親に悩まされ続けた半生だった。 母が作為的悪だとすれば父は不作為の悪である。何れにせよ、二人とも悪なのである。 私が会社を辞めた時も、私の精神状態はとても仕事を続けられる状態じゃなかった。 これを読まれた方は、私の事を、親を悪く言う何と出来が悪い息子なのだとお思いになり、お怒りになる方も居られる事と思う。 然し、過去の事ならいざ知らず、両親が健在の時に、今尚継続されている事から目を背けて迄、親を美化する事等、出来の悪い私には到底出来ないのである。 私は自分の身内だけを、特別に身びいきする程器用に出来ていないのである。 これは私に取って、避けては通れない内省への道なのであり、私がこの体験を通して括り出した問題点は、私の個人的な悩み或いは葛藤から来る、私固有の問題を既に通り越してしまったのである。 今更私のちっぽけな人生等どうでも良いのであり、今となっては、私は親を恨む気持のひとかけらも無いのである。

大体文を書き続ける人間はそれなりの疑問があるからこそ問題提起しているとも言える。 人間は何か問題を抱え込んだ時、その問題が自分のエゴから生じているのか、先ず自分にぶつけてみるものらしい。 そこで初めて普遍的な問題を括り出せる力が出て来るみたいである。 私がこの三十年母親の乱行で心を痛め、それを阻止する為に積極的に戦って来た歴史と、そのお陰で彼女からひどい仕打ちを受け続け、結果的に自分探しの旅に終止符を打つ事が出来た事の因果関係はぬぐい去れないのである。 こんなに遊んでいて、今更ストイックもへったくれも無いかも知れないが、私がこれだけストイックになったのも両親を見て育ったからに他ならない。 「天才が出た家では人には言えない暗い陰が付きまとうものである」と最近友人の一人が私に電話でポツリと言ったのが耳に未だ残っている。 人は、柳田國男を評して、若い頃のニューラル・プルーリングが良く出来たからであると言うかも知れない、或いは、彼はサヴァン症候群であると言うかも知れない。 然し実際問題として、そんなに簡単に解決してしまっても果して良いものなのだろうか。  今迄自分の親がどんなに変っているか、友人、知人達に判って貰いたいと思った事が何度もある。 その度に、「お母さまがそういう事をするのは「可愛い子には旅をさせよ」と思ってらっしゃるからよ」とか、「愛の鞭よ」とか在り来たりの答が返って来て、失望させられたものである。 それ以来、気の置けない友人にしか家の事は話さないようにしている。 子供は親に反抗する時よく「頼んで産んで貰った訳で無い」と言うが、私の場合はそんな生易しいもんでは無い。 最近「産んで呉れて有難う」と言うのが流行っているみたいであるが、あんな欺瞞的な言葉を良く吐けるものだと感心する。 言える人が羨ましい、私には口が裂けても言えない。

最近では國男と面会した事のある人間がめっきり減って、母親の独壇場と言う感じであるが、すでに姪っ子も結婚した事だし、このまま母親の暴挙を放っておくのも不作為の作為であることだし、少なくとも孫の一人いや二人は真実を語りたがっている事をあれから10年経った今ここに記しておきたい。

追記しておくが姪っ子は二人ともお袋の濡れ場に踏み込んでしまいトラウマを背負い込み、上の姪は精神科医と結婚し、下の姪は心理学者になったのである。

一度その話をお袋にしたら、「ほんとに見たのっ」ってやばいって顔をして目をまんまるくした。

何せ僕に「性欲ってのは追求して行くと変態性欲に行き着くって、Kちゃんが言っていた」とまるで兄が本当に言っていたかのように言い、僕が後で兄に問いただすと、「僕が最も言いそうもない言葉だな」である。

何を隠そうこの僕より6歳上の兄こそ多感な時期にお袋の浮気現場に踏み込んでしまい、以来親父に自閉症と蔑まれる位のトラウマを背負ってしまった人間である。

私の事を良く知っている友人には「お前の波乱に富んだ人生を本にしたら売れるぞ」とよく言われたものであるが、その度に、「そんな事をしたら、姪とか甥が結婚出来なくなるよ」と答えていたのである。

これがもし公になり、これが元で姪とか甥の結婚に支障を来たしたら、ひとえに私の責任である。 いつも私を見て、あいつの家は恵まれているからと思い込み、それだけを自分の励みにしている人間には申し訳ないが、私はいつ迄もその人達の為に、恵まれた家庭に育った坊々の見本で在り続ける訳には行かないのである。

何を始めるにしろ、私はこの母親を乗り越えてからでないと、何も出来ないのだ。 以前私が友人とアメリカン・コンテンポラリーアートを扱い始めた時も、知り合いに協力し て貰おうと思い相談した処、「彼方のお母さん、銀座の画廊で評判悪いのね」とスキャンダルを教えられ、愕然とした時もあったのである。 全ての畑は、蹂躙という言葉がぴったりな程母に喰い尽くされ、身動きが取れない時が多いのである。 この間も知人と論文の事を話していた時、話題が両親の事になり、相手に「どうして離れないんだ」、「何が目的なのか」と聞かれた時、思わず自分は「使命感」と答えていた。 そうなのだ、使命感なのである。 その時から私のしている事を、「ミッション・インポシブル」と呼んでいる。 逃げようと思った事だって何度もある。今だって使命を果しさえすれば、家族もいないのだし、もっと物価の低い海外にでも行こうと思っている位である。 國男流に言えば、自分は「無縁様」と言うらしい。子供もいないし「先祖」にもなれないし、日本では「神」の仲間にも入れないのである。 只、昔は「みたま様」という一つの霊体に溶け込んでしまうとされていたらしいので、「みたま様」候補とでもいう処である。 日本にも両親にも何の未練も無い。只祖父だけは別である、これだけ息子夫婦にないがしろにされた祖父を放っておいて、海外に逃げる事なんか自分には出来ないのである。

当時こんな事を書いて使命感に燃えていた自分もその後オーストラリア人と再婚し渡豪しもうすぐ10年になんなんとしているが、日本では90歳を迎えた母と80歳になった件の民俗学者がつるんで事実を曲げようとしているのだ。

僕がオーストラリア人と再婚できて移住できたのは奇跡としか言いようがなく幸せの極みである。 友達と良く話すのだが、今の女房に救われなかったら今頃僕はどこかで狂っているか野垂れ死にしていると。

ここに僕がオーストラリアに来てから4年目に書いた日記の抜粋を載せるが、毎回これじゃ参りますよ、僕は未だ逃れたから良いものを同居の兄なんか帯状疱疹が出て適応障害になったって言うから参ります。

この日記を二年後に読んで僕のブログに散々ぱら嫌がらせをした荒らしが居たけど、これを読んで嫌がらせをするのは本人かそれと出来てると専ら噂の年子の兄位しかいない。

Jan, 05 '04

人間関係につぶされないために!現代人必読書

モラル・ハラスメント
人を傷つけずにはいられない
マリー=フランス・イルゴイエンヌ
高野 優[訳]
紀ノ国屋書店



先日姉が一冊の本を送って呉れた、最近になって姉が母親の鉄面皮且つ破廉恥な言動を詮索し過ぎた為に勘当されたといって、なげきつつ、一足先にオーストラリアに避難した私に、この本の内容が私が母親についてこの20年間主張した事とまったく同じ事をみつけ送ってくれたのだ。

内容は自己愛の強い人間が、過去のトラウマによって、人を傷つけずにはいられなくなるというものなのであるが、内容がまるで母親の事を書いたのじゃないかと見紛うほど、小生がこの20年間事ある毎に主張してきた事と一致し、自覚症状が出始めた、頃から考えれば過去30年間に及びモラルハラスメントを受けていた事になるのである。

この事実から類推して、結局の所それ以前も母親は同じであり、只こちらが子供で自己主張できる立場では無かったと言うに過ぎない。

こういった類の本を読むと余りにも客観視している余り、実に歯痒いのも事実であるし、特に加害者が母親の場合、盲目的に従って居た時代もあり、又自分にも同じ様な血がながれており、同じ様な事を意識せずに繰り返して居た事すらあり、本のように加害者から只離れればすむという単純なものでもない。

50歳になってそれまでの人生を自伝にまとめて以来、この件は蒸しかえしたくもなかったが、この書物の内容が小生の体験と余りにも酷似しており、又被害者としてのあり方が、小生の採ってきた軌跡と似ているので、発表することにより、他の同じ様な被害に遭われている方にとって少しでもお役に立てるのではないかと思い敢えて、筆をとる事にした。

オーストラリア人の今の女房に出会い結婚し、移住して以来4年間、経済的にも社会的にも過去最悪の環境かも知れないが、幸せ感は最高であり、この生活を実戦編として書き記したいと兼ねてから考えていたが、幸せ感というものは相対的なものであり、このクーラーも無い猛暑のオーストラリアで、ひんやりとした風が寝室を吹きぬける幸せ、愛する女房と朝食を取る時の幸せ、これ以上の幸せがどこにあるのだろうかとすら思える時がある。

Jan, 06'04

そんな事を考えていたら、四国のチャット友達がオンして、自分の仲人にシドニーで私等夫婦に会った話をしたら、早速20年振りに電話して来たそうだ。

って言うのも、実はその友人は姉と一緒の大学を卒業し、その仲人はその大学の教授であり、その教授こそ私の母の浮気の相手だったからである。

友人からその教授の話が出た時、又あの屈辱を味会わされるのが嫌だったので、先にそれとなく伝えておいたので、先方もそれ以上は追求しなかったらしい。それとなく伝えたからといって真実を伝えたには違いないし、それとなく全部喋ったらそれとなくでもないし、変な気持ちである。

教授曰く「息子とは葬儀であったが、柳田先生はご発展家だったので、海外に妾腹がいてもちっともおかしくないが、はてどの息子だろう」。

いやじゃありませんか、我が家の親父は女子大の生物学者であり、有名な堅物で一穴主義であり、妾を作る器量なんてありゃしない、それを死人に口無しとばかりに、ご発展家にしちまって。

大体僕の友人も20年振りに突然電話をよこしておかしいとは思ったが、私の話を聞いてみょうに納得して、「柳田さんの言う事には筋が通っている、これは探りを入れて来たに相違ない」と言っていた。

早速姉貴にメイルで報告しておいたら、先ほど返事が入り、義理の姉に確認した処、その教授は葬儀には列席せず、実家に焼香に現れて、「先生はご立派な方でした」と言いおいていったそうな、とんだ嘘つきじゃんか。

僕が或る日会社から戻るとこの教授がステテコ姿で短靴をもってこそこそ逃げる所に遭遇した事がある、帰りがけにその教授が「お父様に宜しく」と抜かした時は殺してやりたいと思ったものである。

この頃になると母の浮気は公然として行われており、僕らも慣れっこになっていたのかも知れない、何せ始まったのは僕が中学に入った頃からなのだから、家族で行った伊豆の戸田とか土肥にリ英会話レコードののセールスマンが来てたり、母親だけ別の部屋に寝泊りしそこから派手な襦袢を着てふらふら出て来たりこども心に変だなとは思っていたのだから。

母親

それは長兄が結婚した当時から始まっているから、今ではもう三十年にもなる。 それ以前にも、色々あったが、高じて来たのは家に他家からの女性が入ってからである。 未だにはっきりと思い出すのだが、会社が終わって家に戻ると、母と年子の兄が連れ立って食事に出掛け様としていたので、自分も未だ食事を済ませていなかったので同行する事にしたのだ。 テーブルに着くやいなや、母が兄嫁に対する悪口を言い始めたのである。 洋服のセンスが悪いだとか、大した内容のものではないが、聞くに耐えないので、私がその時、「嫁を虐めるのは止めろ」と言うと、今度は兄と二人掛かりで、私の生活態度に始まり諸々の事を言い始めたのだ。 余りにも気分をこわしてしまった私は、食事の途中で、隣の町から家迄歩いて返った記憶がある。 その時から、家族がバラバラになり、皆諦めて大人しくなる迄の数十年間、母の嫁いびりは続いたのである。 皆が疲れてしまい、大人しくなると、最近は皆と仲良くなって、私は善い姑だったと思うと独り善がりな事を言ったりもして実に滑稽である。なんせタフな女性なのである。

私が丁度結婚した頃、母が「緑蔭小舎」という画廊を、さる著名な作家のの落胤である事が判明して一時評判になったK氏と始め、私はその時東急百貨店の貿易課に居て、母が柳田國男の書斎後を画廊にした事が新聞等で話題になる度に、私の上の課長が、母が毎回、「父が、父が」と語る記事を見て、「みっともないから止めろ、とお前の母親に言え」と、いつも私に言っていたのを思い出す。 その時私は母に、「嫁なんだから、義理の父とか、舅とか、言った方が良いのじゃない」と、いつも言っていたのだが、その度に母は、「だってお父様が父で良いって仰ったのよ」と、母の傀儡だった、私の父をいつも引き合いに出して来たのである。 その頃から私は母の事を、傀儡師と呼んでいたのである。

母はその頃から、父を放ぽり出していつも画廊で社交に精を出していた。 私も、一度画廊のパーティーに出席した事があり、その席で、私達夫婦の買ったパステル画の話になった。 その時母が「この人達の買う絵なんか、芸術じゃない」と列席の方達を前に言ったのである。 その絵は、世田ヶ谷在住の当時から著名な画家の絵である、母はそれすら知らなかったの だ。 母は私の英語の能力についても、いつも、「彼方の英語なんか、汚くて公式の席じゃ使えないわよ」と、私の話す英語でさえも腐していたのである。

私は時々、果して母の真の目的は何なのだろうと考え込んでしまう時がある。 柳田家で独り柳田の血が入っていない母が何故、祖父の名を語りたがるのか? 一説には、早くから父親を亡くし、祖父を実の父と勘違いしているのではないかとも言われている。 彼女には元々確信犯的なところがあるから、これもその一つなのかも知れない。 血が入っていないからこそ出来る所業の数々私には良識が邪魔をして全ては書けない。 思い出すだけでも金縛りに会った時の様に、胸に何か重いものがズシンと響き、二、三日は回復出来ない程の疲労感が身体中を駆け巡る。 私にはそれが、柳田家に対する復讐としか思えない時があり、こんなにも子供の良識に乗っかってしたい放題をする、こんな事が許されて良いものだろうかと思うのである。 相手の良識を利用している人間に勝つ事は出来ない。無理である。 子供は親の悪口を言わないという前提の元に優位に立って、子供を悪く言って歩く親に果して打ち勝つ事が出来るものなのだろうか。 それでも彼女はカトリックなのである。 親父との間に何があったかは知らないが、ここ迄母が自我を押し通そうとする動機は一体何なのだろうかと常に思う。

以前母がよく言っていたのだが、当時母は平民出身だったので柳田の家に嫁いでから虐められたらしい。 その頃は未だ戸籍に士族とか平民とか記載されていたと言う。 だが、父の配偶者を選ぶ際、強い子が産まれる様に、「女は強い方が好い」と、祖父が彼女を選んだという話もある。 学者だった父と旨く行かない母は、家から学者が出る事を極力避けようとし、姉がインディアナ大学で、民俗学の修士迄取りながらも早く帰国させられ、その後すぐに母にせかされる様に結婚させられ、学問の道を閉ざし、自分で見付けて来た縁談にも関わらず、その結婚にけちを付け続け、挙げ句の果ては御仲人をして下さった方に迄迷惑を掛け、兎に角したい放題の生活をし続けているのである。

私は正直言って、私の五十年の人生の中で、ここ迄節操の無い女性に今迄会った事が無い。 嫁はいじめ放題、それを批判する息子には冷や飯を食わせるは、四人いる子供を仲違いさせようとするはと、何でもありなのだ。 各々の子供に違う事を言っているのが露見しない為である。 バブル景気をいい事に、相続対策の名の下に銀行から金を借りマンションを建て、余分に借りた金で絵を買い込み、景気が悪くなればそれらを、國男ゆかりの市町村へ売り込もうとする。 彼女は一体文化を何と心得ているのか、私は彼女の良識を疑う 飯田市に嫌われれば遠野市に持ち込む、一度世田谷区に寄付した祖父の隠居所も、気が変わり遠野市に引き取らせる。 参男(私)はそれらに勇敢にと言うか向こう見ずにというか、真正面から立ち向かうが母の雇った弁護士の手であえなくダウンしてしまい、その後数年間、母は息子達の手の届かない遠野市を本拠地に、ある民俗学者の先生の後ろだての様な顔で我が物顔に振る舞い、周囲の注意を引こうとしている風である。 その後、その先生が言う事を聞かなくなったと別の先生に鞍替えしようとしているのが、実際の私の母の姿である。  この原因はすべてだらしのない父にあるとは言え、女として、妻として、嫁として又母として、他にやり様は無いものだろうか。 彼女が虫も殺さない顔をして、「私はおさんどんが専門だから、民俗学の事は知らないの」と言いながら祖父の事をしたり顔で語る姿は孫からすると、見るに耐えない。 血が繋がっていないからこそ出来る暴挙である。 一度私は思い余って母に、「貴方には僕の血が入っていないから可哀相だ、僕の血が入って入れば、もう少しは分別が付いたのに」と言った事さえあった。

沖縄に行く

NKと会社を設立した年、民俗学者のT先生と沖縄の宮古島で開かれたシンポジウムに参加する機会を得た。先生の希望で母親も同席した。 宮古島の海岸でT先生がふとした思いつきから「海上の道研究所」を作ろうと言い出した。 自分にも良いアイディアに思えたので賛同した。 私は日頃、母が何かの話を持ち掛けて来る度に、彼女の企みに加担するのだけは避けたいと常に思い続けて来たが、今回の企画は両親も高齢になって来た事でもあるし、前々から祖父関係の窓口がはっきりせず、事務機能の低下を感じていた矢先だったので同行する事にしたのである。 沖縄に行くのは初めてだったし、T先生と御一緒させて頂いたので、普段はお会い出来ない方達にもお会い出来たし、普段行けない場所にも案内して頂いて実に収穫の多い度だった。 沖縄で感じた事は、何と言っても、島の人達が、「本土」、「本島」と自己差別をし過ぎるという事である、その時私は「沖縄は小さな日本である」と思った。 これが後に、祖父の言っていた「孤島苦と世界苦」だと知ってどんどん祖父の学問と言うよりも、祖父の考えていた事に興味が深まり、のめり込む直接の引き金になったのである。 その時迄「青年と学問」すら読んだ事が無かったのである。 もう一つの大きな発見は、「桃太郎の誕生」は祖父がボティッチェリの「ヴィーナスの誕生」をイタリアで鑑賞しながら思い付いたという事である。 自分があれだけイタリア・ルネサンスに惹かれ理由がこの時初めって解ったのである。

海上の道研究所を計画する

年が明けてから、沖縄に御一緒させて頂いたT先生と、「海上の道研究所」の件打ち合わせを成城の実家でしたのだが、公的資金が出る訳じゃ無し、自分がそこの専従になる事も出来ず、その企画は流れてしまった。 その準備段階で「柳田國男を継承する会」というのを設立しようという話も出たが、研究所の話と一緒に立ち消えになってしまった。 その頃母は、一月に一度位遠野に移築したかつての我が家に住んでいた。 私は行った事が無い、それは母親のテリトリーに踏み込めば公衆の面前で必ずと言って良い程息子を蔑んだような発言をするからである。 沖縄の話を私が面白いと思ったのは、東北みたいに寒い所は自分には向かないし、母が牛耳っている所には死んでも行きたくないと思ったからであり、それなら北と南で丁度良いので、自分は宮古島担当になろうと思ったからである。 母がT先生に接近したのは、それ迄バックアップしていたG先生が、自分の思う様に動かなくなって来たので、鞍替えしようとしていたからであり、その日もT先生の「地名研究会」を遠野で開く事の打ち合わせだった。

案の定、母はT先生の前で「無学の芳秋がね」と何かの話題の時に言った。 その時の私の、「貴女の言う、学が有るというのはどういった人を指すんですか」という質問に答えて母は言った、「それはね、大学を出てから、学部から大学院に進み、博士課程迄順調に来た人の事よ」。 その言葉に私は愕然とした。 そりゃ私は幼稚園にも行っていないし、大学院にも行っていない、然し、それを母は、在野世俗の原則を貫き通した、博士でもない、柳田國男の事を話していた席上で言ったのである。 母は私が遠野に行かないのも、母親の後を末っ子が着いて来ると思われるとみっともないからと、勝手な解釈をしていた。 その時の母の表現も、「就職もしていない、学校で民俗学を学んでいる訳でもない人間が母親にくっ付いて」というもので、会社を設立したばかりの息子を捉まえて、「就職もしていないで」はないだろう。 そこに同席していたT先生だって、東大で英文学を専攻してからある出版社で雑誌の編集長をしていた時に、その会社の経営が一時傾き仕方無くて民俗学者になられたというのに、その台詞はないだろうと、私はその母の言葉に失意と憤りを隠せなかった。 その日も私はたまらなくなって「G先生が言う事を聞かないからといって、即、T先生に鞍替えしようとするのは、余りにも節操が無さ過ぎる」と意見を述べた。 その後一寸した事でT先生の御機嫌を損じてしまい、結局その日の会合はT先生が席を蹴って立つという結末で終わった。 母が間に入ると必ず起る現象なのだが、相手の男性は必ず息子を非難してみたり、説教しようとしたりする。 その原因は、母は嫁の立場であり、普段祖父の事をまるで実父の様に「父が、父が」と言っている関係上、血の繋がりのある孫は鬱陶しいのである。 自分が柳田家で主導権を保持する為には、「男共がだらしが無いから」という理由しか無いのである。 従って母の周りに集まる男共は我々息子を見ると勝ち誇った様な顔をするのである。

民俗学者について

その時のT先生とのいきさつは、私がT先生から、もっと柳田國男の本を読むように言われた事から始まった。私としては、専門家でない割にはよく読んでいる方だと自負していた矢先にである。 その時正直言って自分こそ読んでいるのかと思った位、柳田國男の生前言っていた事が無視され続けていると私は思っているのである。 学会どうし、例えば「民俗学は史学ににじり寄っている」と言ってるかと思えば、民俗学者どうしでさえ、我こそは正統派柳田民俗学後継者と言わんばかりに、片や徒党を組む者もいれば、片や一匹狼を気取り、お互い中傷し合っているかと思えば大同団結をする。これが果して真の学問に対する姿勢と言えるだろうかと常日頃から考えていたのである。 それでも巷では、「柳田さんの書物を読むと、救われるようなところがある」とか、読売ジャイアンツでもあるまいに、「民俗学は二十一世紀に向けての不滅の学問である」とか、「日本は何か大切なものを失ってしまった」とか、お為ごかしの美辞麗句を並べ立てた、柳田賛歌が聞こえて来るのである。

私はは何もここで個人攻撃を試みている訳ではなく、只傷付き怒っているのである。 それは、柳田の学問が、西欧の押し付け型普遍主義に傷つき、まるで、挫けた人間が心の拠り所求め集まる駆け込み寺みたいに成り下がっているからである。 柳田は決してそんなに弱い人間ではなかった、だからこそ逃げ込み易い場所なのかも知れないが、これでは柳田の学問も逆効果ではないか。 柳田は決して、内弁慶が空威張りをしたり、負け惜しみを言ったりするのをかばう為に日本を研究していた訳じゃ無い。 柳田が括り出した日本のマイナスの側面も改善しないで「日本は元々こうである」と安心してしまう事を柳田は喜ぶ筈もない。そういう人間が学校で建て前教育をするから、学生が社会に出てから困るのではないか。 その時、正統派柳田民俗学後継者を自認するT先生が、私にに対して、「お前の疑問等どうでもよい」と暴言を吐いたことも事実であり、それも「学問は先ず疑問から」と明言してやまない柳田國男の後継者を自認している人間がである。 「眼前の生活上の疑問が右にも左にも解答できぬようなら、学問等無益なわざと言われても仕方がない」とさえ言う柳田の後継者が先の発言をする事自体筆者には信じられなかった。 それも、祖父は霊の存在をあく迄も信じ、日本人は孫に生まれ変わるとさえ信じて、霊になってからもこの世に残って丘の上からこの国の行く末を見守っていたいと、わざわざ自分の墓を川崎の公園墓地に生前に購入した位であり、その孫に対してT先生は言ったのである。

T先生も矢張り一時キリスト教に傾倒して挫折したとは、私は以前本人から聞いて知っていた。 柳田國男だってキリスト教に引かれた事だってあった。でも挫けた訳じゃない。 私だって幼児洗礼を受けたクリスチャンだが、日本のムラ社会的教会にはうんざりさせられる事が多かった。 所詮宗教なんて言うものは、乗り越える為にあるもの、これが駄目だからあっちなら大丈夫だろうなんて事は無いのである。 それだけで済ませて置けば好いものを、彼は私に対して、「君は稲穂を見た事があるか」、「もっと漁夫とか農夫とかの話を聞かなければだめだ」と時代錯誤的な事を更に付け加えたのである。 自分の故郷の近くの有明海が埋め立てられようとも、諌早湾が埋め立てられようとも、行動一つ起こさない人間がである。 「自己の郷土すら正しく解し、確実に語ることのできぬような人々に、弘く全般の人道を論議するの資格、果してありということを認め得ないゆえに、まずもって自ら知ることの要諦を詳らかにせんとするのである。」と、祖父が述べているのを知ってか知らでか。 又、その老学者は付け加えて、「古今東西、世界は戦争が繰り返し行われ、昔から全然変わっちゃいない」というような、無常論を唱えたのである。 大体日本のかつての大人たちは、ある時は「親を大切にしろ」と儒教の教えを説き、又ある時は「和をもって尊しとなし」と言ったり、またある時は「汝の隣人を愛せ」とキリスト教になったりして、実に御都合主義なのである。 これは日本が神仏習合の国と言われているからなのか。  私ははその時、「いやしくも、柳田國男の研究者と自認し、神道や国学を研究する人間が、仏教の無常論を唱えるのはおかしいのじゃないか」と、思わず切り返したのである。 その私からすれば、学者の風上にも置けない七十六歳の老人が、最後に、「君も言いたい事があるなら、自費出版でもいいから本にしなさい、そうしたら読むから」と、捨て台詞を残し、悲しそうな顔をして私の両親に「芳秋さんの言っている事は正しいんですよ」と言い残し席を蹴って立ったのはその数分後である。 それには、さすがに私の両親も唖然としたのだが、私にとってはこの二人の証人が居たので救われたとも言えるのである。

今回この自伝の抜粋に補足して再度発表する事にしたのは、この民俗学者が今度は僕の姉である成城大学の文化史コースで柳田國男の直々の弟子から民俗学を学び、その後インディアナ大学で修士を取った人間を、「正義感の強い孫がいると話し難い」と言って丁度母の誕生日である6月23日に実家で行われた出版社との対談から席を外させたからである。

その理由が驚くなかれ、なんと90歳の老婆と80歳の老民俗学者が僕と会った10年前に國男とは直接会ったのは自分がある出版社で特集を組んでいる時に、成城大学の教授に頼み込んで一回だけであり、その時國男に馬鹿にされたとまで言っていたのに、対談では國男の死の床に招き入れられその時の成城大学の別の教授の事を愚図と言ったとまで言ったらしい。

笑ってしまうの母親が事ある毎に言っている「おじいちゃまが、おこそ頭巾をかぶったまま寝ていて、白足袋の足がちょろっと布団から出るたびに、恥らってそっと布団の中に戻していた」って下りをさも自分が同席していたかの様にしゃべったと言うじゃないか。

その他にも、自分自身が國男が「成城の駅の椅子に無聊な感じで座っているのを見て、侘しさを感じた」と言ったらしい、又伝聞ではあるが、何方かが國男が溝にはまってるのを助けて家まで送り届けたにもかかわらず御礼も言わなかったとか話したそうである。

自分の祖父を蔑まれて傷ついた姉が「おじいちゃまが本当にそんなこと言ったのですか?お話作って、言いふらしちゃいやですよ!」と言ったら、前述の「正義感の強い、、、」云々が出たらしく、その上席を外そうとする姉に「又毒舌を聞かせて下さい」と言ったそうである。

「柳田國男を継承する会」ホームページを開く

T先生との出会いもさる事ながら、確執も意味があった。 それが論文執筆の直接の原因になった位である。 この頭の固い人達を相手していても時間の無駄であり、それならそれで自分一人でも始めてみようと、ホームページに取り掛かった。 った。 私が自由が丘に店を開いていた頃、丁度インターネットが普及し始め、面白いので、自分もホームページを開こうと思い付いた事があり、結局そのホームページは翌年店を閉めてから、コンピューターを自宅に移してから開く事になってしまったのだが、私は既に一つのホームページをその時開いていて、その名称は「ルネサンス・クラブ」である。 内容も全て英文に訳し、外国の同じ主旨のホームページともリンクさせて貰ったりして、最初の内は感想のメールを貰うのが楽しみだった。 主旨は日本は、憲法の全文に「人類の普遍的原理」に基づくと謳っていながら、普遍性追求姿勢が皆無だというものである。 然し、期待外れで、日本人からのメールは一通しか来なかった。 その頃の私は、長い間に亘る親との確執に傷付き、ストイックになっていた。 その頃したためた文章も実に哲学的な物ばかりで、何処か厭世的な感じさえする。 従って、ホームページに載せた文章も皆同じ様に哲学的な感じのものばかりになってしまった。

今回は二度目なので簡単だった。 最初の内は、怒りの余り文章が過激になり、未だに未発表のページも何ページかある。 その内落ち着いて来ると、自分自身の頭の中で、何がいけないのかが整理されて来て、それが後の論文を纏める作業にすごく役に立った。 オープンして二ヶ月位して、「柳田国男の会 公式ホームページ」というのを発見して、リンクさせて貰う事にした。 これは名古屋大学の方が中心になって運営しているものだそうだ。 日本のホームページの特徴は、情報が少ない事である。 特に学者さんが開いているものは、大事な事は学会でしか発表出来ないとみえて少ないのである。 これは知的所有権の問題が日本では未だ完全に整備されていない事から来るのだとおもわれるが、非常に残念な事である。

一時は更新するのが楽しくて、毎日、日記風にその日に感じた事を書き綴った。 元々普遍主義研究のページと対比させて考えようという主旨で始めたページなので、どうしても民俗学を志向されている方達には受けが悪いだろうと思っていたが、余り批判的な物を書いた次の日は決まってアクセス数が減った。 残念なのは、どんなにアクセス数が多くてもメールを下さる人の数が少ないという事である。 内容がつまらないと言われればそれ迄だが、つまらないなら、つまらないと感想位寄せてくれても良いのにと思う時がしばしばある。

たまには、ネット・サーフィンと洒落込んでみる時もある。 先日も、サーチしていたら「遠野からのお知らせ 柳田冨美子(母)」という母のページを見つけ、息子のしている事には無関心を装い、息子の書いたものを勝手に、まるで自分の意見の様に言っている母の姿に嫌な気分がした。 自分もこうしてインターネットやってるのよとどうして一言言えないのか不思議な気がした。 沖縄タイムスの記事をサーチしていた時も、「柳田国男ゆかりサミット」の記事と一緒に 「柳田為正(父)文庫開設」という記事が載って居り、贈呈式に父の代理で出席した母が記者のインタビューに答えて「父は沖縄の事を一番気に掛けていましたから」と如何にも知った様な口調で語る母の記事をを見つけて、内心「よくもまあしゃあしゃあと」と思ったものである。 これだけ一生懸命祖父の事を真面目に研究している息子に、幾ら疎遠にしているからと言って、何も情報を流さない親がいるかと、実に嫌な気分がした。

その時始めて、サミットが宮古島であったのを知り、あの忘れもしない所謂「芳秋のご乱心」と自分達の事を棚に上げて周りに言いふらした、平成三年の事件を思い出したのである。

思えば、あの年も宮古島で「柳田国男ゆかりサミット」があり、両親が招かれ、私は、「それどころじゃないだろ」と一人反対していたからである。 と言うのは、丁度あの当時は湾岸戦争が勃発し、テレビでは毎日そのニュースばかり流れていた記憶があり、私はその時「家の中がこんなじゃ世界平和なんて無理な話だな」と思ったからでもある。 そして今度は、「コソボ紛争」である。 どうも私の正義感はアメリカ型であり、柳田家の平和は世界の平和と連動しているらしい。 日本人が、平気で普遍主義を否定するのも、欧米諸国がいつもこの調子で旨く行っていないからでもあるのだから。

論文を纏める

プライドを著しく傷付けられた私は、それなら一つ文章に纏め上げてみようじゃ無いかという気になり、これ迄機会ある毎に買いだめておいた祖父の本を片端から読んだ。 それ迄古本屋に立ち寄った際に祖父の本が並んでいると、何故か家に持ち帰らなくてはいけない様な気がして買っておいたものである。 所謂柳田学の本も年に数冊出るので、どうせ読んでも同じ事ばかり書いてあるとは思いつつ仕方が無く買った。 正直言って迷惑である。 と言うのも新刊が出ても、実家止まりで自分の所へは廻って来ないから、自分で買わなくてはいけないからである。 柳田の事を専門に書いたものよりも、むしろ河合隼雄氏だとか小林秀雄氏が御著書の中で一章柳田について頁を割かれたり、引用されたものの方が自分は興味を覚えた。 かくして家中本だらけになってしまったのである。 一度父に頼んで実家にあるのを貸して貰おうと思ったが、抜いた分は紙に何を持ち出したか書いて挟んでおけとかうるさいので、結局自分で買う事にしたのである。 文庫版も母が遠野に大部分持って行ってしまったそうである。 そう言う時の父はいつもうらめしそうな声を出した。

読み始めてみると、大事な事は集中して数冊に書かれている事が判って来た。 専門分野のものはどうしても興味の対象外においてしまうが、柳田國男独特のの流儀と言うか癖があって、節や章の始めと終わりに自分の本当に言いたい事が書かれているのを発見したのである。祖父の言葉を借りて言えば「実験」である。 大事な部分をマーカーでなぞって行くと、ある項目はマーカーの色で埋まってしまう事も多い。 興味を引かれるのはどうしても、学会で所謂「ジュネーヴ以降」と言われている物に集中する。 それも、各論部分ではなくて、柳田が各論から括り出した柳田自身の考え方である。 如何せん、私の興味は「東京オリンピック以降」なのだから。 私はどうしても民俗学者にはなれないとその時感じた。

論文を一通り纏め上げ、ホームページに載せた分と一纏めにしてみるとかなり様になったので、実家に持って行って両親に見せたが、二人とも実に無関心で、この二人は何を考えているのかと思い、ひょっとして自分には國男の血は入っていないのではないかと疑った位である。 父の言った事と言えば、「変な事を書くと、学会から潰されるぞ」という事だけだった。 父は國男のオーソリティーは自分だと、密かに思っているところがあるのだが、その割になかなか話して呉れようとはしない、実に変った親である。 これで私は一通り、祖父のしていた学問の基本部分を掴んだ気がした。 祖父の好んで使用した、「史心」、「実験」、「重出立証法」の意味、所謂二つのミンゾクガクに如何に悩まされたか、自分の提唱した「民俗学」を科学として認めさせようとする努力がよく解った。

一度出版を考える

その年に一度、今迄したためたものを本にしてみたいと思った事がある。 丁度その頃知り合った、雑誌の編集者に、最初に書いた小冊子と、その三年後に纏めたルネサンスから始まる、日本の特異体質を纏めたものと、今回の「柳田学」を纏めたものを、束にして見せた事がある。  今から思えば乱暴なやり方だったと思うが、祖父の研究をしてみて、正確に後世に伝えるのは今しか無いという焦りの気持が強く出ていた時期であり、素人の私には正しい方法も知らないし、編集者に一度相談してみたいという気持が強かったのである。  その編集者がたまたま私の高校、大学の後輩だったにも拘わらず、受入れて貰えなかった。当然の事である、世の中そんな甘いものじゃ無いのであり、私が甘かったのである。

親を見切る

その後決定的に私を吹っ切らせる事件があり、一念執筆も中断していたが、不況で自分達で経営している会社も鳴かず飛ばずである事を良い事に、再度挑戦してみる事にしたのである。 その事件とは、母が私にマンションを買う様に勧め、物件も決め、頭金も支払い、あと一月で完成引き渡しという時に、こちらのビジネスは活性化しない、従って期待していた金も入らない、残金は実家で持つと言う甘言に乗せられた自分が馬鹿だったのだが、自分は頭金を持ったのだし、家族もいないので、名義は誰の物でも関係無い、持ち分が少なくなるだけだ、拠ん所なくなったら貸せば良い、投資物件としては、下手に現金で持っているより利回りが良い等と軽く考えていたのが大間違いだったのである。

購入を決めた少し前に、家族会議を開き遺言状も家族で各々の相続分を確認した後の事で、以前不動産業をかじった事のある私は、自分の持ち分の土地も少ししか無い事だし、この地価の下がり様じゃ何も残らないと早々と判断していた自分は、連帯保証人になっている兄が気の毒に思い、その時は盲判を押したのだが、前の事件の時海外赴任していて、いきさつを良く知らないで、疎遠になってしまっていた、長兄の逆鱗にふれ、支払い期限ぎりぎりに母が逃走するという事件が勃発したのである。

前の事件以来その時迄は私は悪者にされていて、その家族会議は何十年ぶりに皆が一同に集まったという感じだったのであるが、そんな事も忘れ、それに気を良くした母が末っ子に接近して来たのにも気付かず乗ってしまった自分が馬鹿で悔やまれるのである。 逃げる前に、母は実家に同居している兄嫁にも「芳秋が何をするかも知れないから、家には鍵を掛けておけ、乱暴したら警察を呼ぶように」と言い残したからたまらない、期限が次の日に迫ってしまい、担当者に電話しても、 「一度お電話を頂きましたが、外出していたものですからお話し出来なくて」 「その後御実家にお電話差し上げたのですが、どなたもお出にならなくて」、と打つ手が無いという感じだった。 方々電話してみたが埒が開かず、途方に暮れている処、司法書士にアポイントメントをとったというところ迄は調べが付いたがその後が判らない、結局は諦めて、預けてあった契約書を取りに雨の中を実家に行くと、ドアと言うドアに鍵が掛かっていて、中に親父と兄嫁がいるのは見える、二人とも眼があっても困った顔をするだけで開けて呉れない。 これが、母が仕組んだ罠だったとその時知っていたら、雨さえ降っていなかったらと今だから思うが、後悔先に立たずである。 私はまんまとその罠に掛かってしまい、そこにあった石で縁側の通用口の硝子を割っていたのである。 幸い警察は呼ばれなくて、事無きを得たが、手に怪我を負ってしまった。

その後すったもんだしたが、違約金を払い、損失分は兄が実家から補填する様に取り計らって呉れたので助かったが、一時は又悪者にされるかと思って悩んだものである。 子供というものは、どんなに悪い母親でも必ず信じようとするものである。 私の母の様に、各々の子供に違う事を言い、子供がお互いに猜疑心を持合う間隙を縫って、漁夫の利を得るタイプは少ないのだと思うが、お陰でそれ以来長兄とは仲良く付き合わせて貰っている。 その頃、テレビ・コマーシャルに、「MOTHER、Mを取ったらOTHER、他人です」というのがあって、私はそれを聞く度に、このMは、MORALのMだと思ったものである。 男三人共がサラリーマンだと、一人が日本にいればもう一人は海外という感じで、皆が一同に顔を合わせるなんて機会は滅多に無い事なのであり、若い頃はお互いの競争心もあるし、それぞれ結婚して配偶者が出来ると利害もかち合うので、なんせ戦争を挟んだ年子が二組いる訳だから、お互いの立場を理解し合おうと思う方が間違っているとも言える位であり、そんな心の隙間を母に利用されてしまったと言う感じである。

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